柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

4代目あばれはっちゃくの誕生日

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『痛快あばれはっちゃく』OPより

4代目長太郎49歳

毎年、恒例の記事になりますが、今日、4月1日は『痛快あばれはっちゃく』の主人公、桜間長太郎、4代目あばれはっちゃくの誕生日です。『痛快あばれはっちゃく』は、小学5年生から始まり、1983年4月2日~1985年2月23日まで放送されました。4代目の長太郎と長太郎の同級生の年齢設定は、1972年4月2日~1973年4月1日生まれになります。長太郎は早生まれの最後、1973年4月1日生まれですから、今日で49歳ということですね。

ちなみに明日4月2日は『痛快あばれはっちゃく』の放送が39年前に始まった日。そして、奇しくも明日は土曜日という。曜日が39年前と同じなんですね。来年は40周年。とうとう、4代目『痛快あばれはっちゃく』も40周年の大台の手前まで来てしまいました。そして、明日は明日で、長太郎の親友である、清の50歳の誕生日でもあります。

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『痛快あばれはっちゃく』1話より

うーん、子どもの頃から知っている作品で、ついこの間の感覚があるというのに、そんなに月日が経っていたのかと。子どもの頃に、両親の小学生時代とかって、すごい大昔だと思っていたのに、その親と同じ年齢になっていくと、そんなに大昔でもないんだなって思ったりします。一方で、4代目が始まった時に生まれた赤ちゃん達が、もう39歳になっていると知ると、39年の時の長さに驚いてます。

私は、今年で48歳になるんですが、私の生まれた年の1974年に公演された宝塚歌劇団月組の『ベルサイユのばら』や放送開始された『宇宙戦艦ヤマト』(読売テレビ)『アルプスの少女ハイジ』(フジテレビ)『電人ザボーガー』(フジテレビ)『仮面ライダーアマゾン』(TBS)『ウルトラマンレオ』(TBS)『傷だらけの天使』(日本テレビ)『日本沈没』(TBS)『猿の軍団』(TBS)を1974年当時に楽しんで見ていた方達は、その年に生まれた子が、もうそんな年齢に!って驚いているのでしょうか。

なんで隼人さん?

さて、4代目長太郎の誕生日は、過去の記事でも書いていますが、1話の夕食の場面で父ちゃんの口から出てきます。四月バカの早生まれで、体も小さく、勉強もびりっけつと。この夕食の場面に家族とサクラマクリーニングの従業員のマリちゃんと一緒に登場するのが隼人さん。演じるのは『俺はあばれはっちゃく』(1979年2月3日~1980年3月8日)初代長太郎を演じた吉田友紀さん。

母ちゃんの口から、小さい長太郎を隼人さんにお願いして鍛えてもらったということが話されます。で、この場面を見て、母ちゃんの話を聞いた時に、どうして隼人さんにお願いをしたんだろう?って疑問に思ったんですよね。近所の親しいお兄さんだからお願いしたのかなとか、勝手に補完しちゃったんですが、特に長太郎がなぜ隼人さんにレスリングで鍛えてもらうことになったか、という経緯は描かれないので、今、思うと不思議ですね。

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『痛快あばれはっちゃく』1話より

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『痛快あばれはっちゃく』1話より

テコ入れと原点回帰

初代長太郎を演じた吉田友紀さんを島津隼人役として、『あばれはっちゃく』シリーズに戻したのは、ある種の原点回帰というところもあったのかなって、それから、長太郎の親友の清の家が『俺はあばれはっちゃく』の長太郎の親友の公一の家と同じ八百屋で店の屋号も同じ「八百勝」になっているのも、4代目は初代を踏襲しているのかなって思いました。違うのは清のとこは両親が健在で、公一のとこは母子家庭というとこかな。

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『痛快あばれはっちゃく』3話より

それでいて、4代目はひらめきのポーズを変えたり、オープニングソングは変えず、エンディングソングは各代で変えているものの、歌手はずっと堀江美都子さんだったのが、4代目では、オープニングはそのままでも、エンディング歌手が松下丸子さんに変わっていたりと、少しずつシリーズの定番を変更しています。

また、初代『俺はあばれはっちゃく』から3代目『熱血あばれはっちゃく』まで『あばれはっちゃく』シリーズの脚本家は5人、山根優一郎さん、三宅直子さん、田口成光さん、市川靖さん、安藤豊弘さんだけだったのが、4代目の後半から、新たな脚本家名倉勲さん等を迎え入れています。

そういう意味では、4代目『痛快あばれはっちゃく』は新旧が入り混じった、シリーズの分岐点、転換期の作品だったのでは?と思ったりもします。

承認欲求の塊

恵まれているブログ

私、柿の葉は承認欲求の塊ですので、自分の書いた記事がどんなふうに読まれているのか、解釈されているのかとても気になります。共感してくれているのかな、それは違うと思うなと思われているのか、ちょっと、それは考えすぎって苦笑されているのかなとか、そういう見方もあるのか!なるほどって思われているのかなとか、いろいろと考えてしまうのですね。

反応があると嬉しいし、励みにもなるし、たまにデーターとかで間違いがあったりしちゃうけども、それ、違いますよって教えてくれる人がいて、とても助かるし。言い訳ですが、一人で調べていると、間違いとかケアレスミスがあったりとか、勘違いとかもあったりするので、間違いの指摘は嬉しいです。

だからと言って、それ!違うだろ!違いますよ!間違いを拡散するな!ど素人の癖にって高圧的に上から目線で叱られたり、私の感想や考察に「は?馬鹿じゃねぇの」と全否定されたりすると、とても悲しいのですけれども、そんな人はこれまで一人ぐらいだったので、私のブログは、恵まれている方だなって思っています。

エゴサーチ

はてなダイアリーの頃から始めて17年。名もなき個人ブログであるこのブログは、特に話題になることもなく、ネットの隅の隅の隅で細々と続けてきたブログなんですが、たまに、このブログってどんな風に見られているのかなって思って、エゴサーチをしてしまったりするのです。

するとですね、驚くことに、Facebookとか、ヤフー知恵袋とか、5ちゃんねるの掲示板とか、Twitterとかに私のブログのリンクが貼られていたりしていて、アクセス解析を見ると、そこから、このブログに辿り着いている人達も、この17年の間にはいたりしました。

ヤフー知恵袋や5ちゃんねるの場合は、資料データーとして貼られることが多く、FacebookTwitterの場合は、たまたま検索してみて見つけて、記事について呟く、感想を添えるという人が多かったです。意外にも、否定的な意見は見られなかったので、ああ、良かったと胸をなでおろしていました。

こんなマイナーなブログに訪問してくれる人達は、どんな経緯でこられるのだろう?はてなアクセス解析だけでは分からないから、エゴサーチをして見てしまう。コメント欄は開放しているけれど、そこに、あまり記事の感想は書かれないから、記事に対してどんな見方をされているのかなって、気になって、気になって調べてしまうという、私は承認欲求の塊なんです。

嬉しかったこと

貶す意見が見た限りなかったのは嬉しかったんですが、エゴサーチって心に負担がかかるので、あんまりしない方がいいかなあって思ってはいます。ただ、エゴサーチの誘惑に勝てるかどうか!

最近、エゴサーチをして嬉しいことがあって、それは酒井一圭さんについて書いた記事で、純烈のファン人達がその記事を喜んでくれたのを目にした時でした。あ、酒井さんのファンの人が私の書いた記事で喜んでくれている、書いて良かったって思いました。

私の記事で至らない部分があって、不快な思いをされたりする人もいるんだろうとは思うのですが、喜んでくれる人もいるんだっていうことは、記事を書く励みになります。人から道具としてではなく、必要とされることは、記事を書いたり、さらには生きる励みになっていくんだなあって、そんなことを思いました。

情報追加のお知らせ

情報を追加しました

kakinoha.hatenadiary.com

上記記事の『俺はあばれはっちゃく』26話「モヤシも男だ」にゲスト出演された熊谷誠二さんの情報を追記しました。熊谷さんは、フォークシンガーとしても活躍されていますが、それに関してのインタビュー記事ページをみつけたので、その記事リンクを貼ったのと、その記事の情報に20歳の時にフォークシンガーとして活動を始めたとあったので、20歳の時にフォークシンガーとして活動を開始と活動開始年齢を加えました。上記記事に追加したリンクは下記のものになります。

熊谷誠二さんに聞く

秘密の約束

『俺はあばれはっちゃく』5話より

似てるなあ

『男!あばれはっちゃく』42話の感想記事を書きながら、思い出したのは『俺はあばれはっちゃく』5話でした。脚本も、監督も違うのですが、長太郎が本当のことを言いたくても言えないという状況が、とても似ているなって感じたのです。

初代『俺はあばれはっちゃく』の5話の脚本は市川靖さん、監督は山際永三監督、2代目『男!あばれはっちゃく』42話の脚本は安藤豊弘さん、監督は磯見忠彦監督でした。

初代5話は公一が長太郎が茂にやり込められた姿を目撃し、それを固く長太郎に口止めされます。長太郎にも、言い分があるものの、それをグッとこらえて耐え忍びます。長太郎とは関係なく、仕事で嫌なことがあった父ちゃんは長太郎に八つ当たりをし、長太郎も、また口でやり返します。

自分が我慢する部分では我慢をした長太郎ですが、それと別件のことでは、我慢しなければならないところの発散として、父ちゃんに対してやり返している、という印象を受けました。

長太郎はヒトミちゃんに誓った「暴力は振るわない」の約束を守るために、屈辱に耐えて、茂の言葉に従い、父ちゃんの八つ当たりの暴力に対しても、暴力は振るわず、言葉で言い返して耐えています。

一方、長太郎から固く口止めされた公一は、長太郎に剣幕におののくものの、口止めされた事自体には、それほど悩んでなく、長太郎が本当にピンチになった時には、素早くヒトミちゃんに報告をして、長太郎のピンチに駆けつけています。

『男!あばれはっちゃく』42話でも、邦彦が起こした事故の罪を長太郎が被って、邦彦に固く口止めをしています。長太郎は邦彦の罪を被ったことで、寺山先生や父ちゃんから、きつい叱責と罰を受けてます。

初代5話と2代目42話で私が似てるなと思ったのは、2点。それは、初代の長太郎も2代目の長太郎も事情を知らない周囲から不当な扱いを受けて、理不尽な思いをしていること。長太郎以外にその詳しい事情を知っているのは、初代では公一のみ、2代目では邦彦だけになっているところです。

違い

似ている、共通点は上記に書いた2点ですが、そこには微妙な違いがあり、これがそれぞれの話の印象を変えていると感じました。

初代では長太郎のこれまでの行動から始まって、自分から自発的に縛りを設けたのに対して、2代目長太郎は自分の行動とは関係なく、ある意味、巻き込まれた形であること。長太郎以外に、唯一、事情を知る公一と邦彦の立場の違いが大きく話の印象を変えています。特に長太郎の秘密だけを口止めされた公一と、自分の罪も口止めされた邦彦では、その言っちゃいけないという心の重さは大きく違うと感じました。

初代の長太郎の悔しさを含めた辛さと誤解されている親友を悪く言われる公一の辛さ、2代目長太郎の自分さえ我慢すればと耐える辛さ、長太郎に罪を被ってもらい、その為に周囲に嘘をつき、長太郎が罰を与えられているのを見るしかない邦彦の辛さ。

邦彦が罪の意識に耐え切れず、ノートに自分のしでかしたことを書いて、罪の告白をしたノートは、長太郎の口止めが、どれだけ邦彦の心の負担になっているかが分かります。本当のことを言えず、耐え忍ばないといけない4人(初代長太郎、公一、2代目長太郎、邦彦)の中では、邦彦が一番辛いことを耐えないといけないこと。4人の中では、唯一、非があるのが邦彦だけです。

『男!あばれはっちゃく』42話より
『男!あばれはっちゃく』42話より

解決に直接に繋がらない秘密とそうでないのと

初代5話と2代目42話では、黙っていないといけないことの大きさ、深刻さの違いがあって、初代5話が2代目42話に比べると、2代目42話を見た後で、初代5話を見直してみると秘密の重さが軽く感じました。

また、初代の公一はヒトミちゃんに長太郎と茂がボクシング対決をしていることを伝えに走りますが、長太郎に口止めされた長太郎が茂たちにヒトミちゃんとの約束を守って、暴力を振るわずにやられてしまったことは、話していません。秘密にしておくべきことと一連の出来事の解決に向かう出来事が繋がっていても、それぞれに分かれていることが、公一の心の負担の軽さにも繋がっていたようにも思います。

『俺はあばれはっちゃく』5話より

公一は最初の約束をうっかり破りそうにはなりますが、そこには初代長太郎がいて、すぐに公一を制しています。約束した後で、つい言ってしまうぐらいには、公一の中では重さがなかったように思うのですが、悔しさを堪えた長太郎を見ていた公一が、ヒトミちゃんに誤解されている長太郎を思ってのことだったので、それだけ、公一にとって、長太郎が大事な友人なんだなって思うのです。

一方で2代目の長太郎と邦彦が共有した秘密は、話の核であり、事件の解決に直接繋がる秘密でした。だからこそ、とても大きく深刻で、その秘密の重さもとても重かったのだと思います。それでいて、その秘密の重さが私には、2代目長太郎と邦彦では大きく違っていたように感じました。

2代目長太郎と邦彦が同じ秘密を共有しながら、秘密にした罪の重さや深さが違いすぎたことは、同じ秘密を同じ程度の重さで共有していたように見えた初代長太郎と公一の関係とは、別のように見えました。

自分自身が起こした事故が原因であるだけに、告白をして楽になりたいという邦彦の意志は長太郎に押さえつけられていて、さらなる苦しみを与えています。長太郎も本当のことを言えずに父ちゃんや寺山先生、みゆきちゃんや章、和美ちゃん、弘子ちゃん達にも非難され辛いかったと思いますが、その原因を生み出した邦彦が本当のことを言えずに、弘子ちゃん達に賛同することは、さらに辛かったと感じました。

『男!あばれはっちゃく』42話より

秘密の複雑さ

口止めした秘密というのは、どちらも一つでしたが、それが初代5話では意外と単純であったのに対して、2代目42話では複雑になっていたように感じました。初代でも、複雑に出来たと思うのですが、事件解決に向けて緩く繋がりがありながらも、長太郎が公一に口止めをした秘密と、長太郎が密かにした茂とのボクシング対決の秘密(こちらは口止めされていない)を分けたことで、単純化出来て、分かりやすくしたと感じました。

42話は理科室での事故を邦彦が起こしたことを秘密にし、長太郎と邦彦でその秘密の重さや秘密を守るために嘘をつくことへの罪悪感の違いを出したことで、同じ秘密を共有しながらも、両者の苦しみの違いを出して、同じ秘密でも、人の立場によって、その重さは大きく違い、良心の呵責が人を苦しめること、人の為を思っての行動が相手を苦しめることを2代目42話で見せてくれました。

私は、どちらの話も大好きですが、秘密の共有と真実を隠す苦しみを書いた2代目42話は、より深く、考えさせられた話でした。また、初代から続いてきて、2代目『あばれはっちゃく』の1年目を終わろうとする時期だからこそ、書けた話でもあるんだろうなって思いました。

守るべきものと正直に話すことと

初代は最初の秘密の約束は守られていながら、長太郎の名誉は回復しているところが素晴らしく、約束を守る大切を伝えていて、2代目は秘密の約束は守られることはなかったのですが、重大な事件の真実を隠さないといけない秘密の場合は、真実を正直に話すことが何よりも一番重要であるということを伝えているようにも感じました。

秘密の約束というのは、時にして守らなければいけない場合とそうでない場合があるということを、初代『俺はあばれはっちゃく』5話と2代目『男!あばれはっちゃく』から学んだように感じます。

お元気そうで何よりです

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心温まる

上記のリンク先のブログ記事で、万江仁士さんからご自身のYouTubeの動画『男!あばれはっちゃく』2話「リスを探せ!」にゲスト出演した伊藤康臣さんからコメントを頂いたというコメントを頂き、そのコメントを見に再び、万江さんのその動画を拝見しにいきました。

そこでの、万江さんと伊藤さんのやり取りは、双方に互いを思いあう心が文面から読み取れて、とても心が温まりました。お二人のコメントそれぞれにいいねをしました。また、伊藤さんもYouTubeで動画をUPされているので、コメント欄のアイコンから伊藤さんのYouTubeチャンネルにとんで、今もお元気な姿を拝見してとても嬉しく、チャンネル登録をしました。

諸々の諸事情で私は、あまり身元を知られると困るので、YouTubeでは別のハンドルネームを使っていて、「いいね」で反応するしかなく、コメントを出来る立場ではありませんが、YouTube動画を通して、心が温まるやり取りや、お元気な姿を見ることが出来ることを嬉しく思っています。

『男!あばれはっちゃく』42話「笑え!風船」感想

 

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『男!あばれはっちゃく』42話より

1981年1月18日放送・脚本・安藤豊弘さん・監督・磯見忠彦監督

泣いた

この話も、もちろん、子どもの時にも見ていたのですが、『男!あばれはっちゃく』のDVDが発売される前に、YouTubeにUPされていて(どなたがUPされたかは覚えていますがここでは名前を伏せます)、それで子どもの時以来に見返していた話でした。その時にも、視聴して泣いてしまったのですが、改めてDVDを購入して見直してみても、今回、この記事を書くのに見返してみても、やはり涙を流して泣いてしまった話でした。

子どもの頃に見ていた時は、長太郎の方に肩入れして見ていたのが、大人になって見返した時は、邦彦の方に肩入れをしてみていて、また、子どもの頃には怒りや切なさを強く感じていたものの涙は出なかったのに、YouTubeやDVDで見返した時には、怒りの感情はなく、長太郎に罪を被せることになった邦彦の良心の呵責からくる苦しみの方に強く共感して、その苦しみからくる邦彦の態度や気持ちの方に強く心が惹かれました。

また、邦彦の為に邦彦の罪を被ることを迷うことなく選択した長太郎の優しい思いにも納得できるところがあり、それは、邦彦にも分かるからこその、邦彦の苦しみなんだというのも分かって、何も知らずに長太郎に罰を与える寺山先生や父ちゃんに対して、何とも言えないもどかしさを感じました。

邦彦の気持ちの体現

この全てを知って見ている視聴者の私にとっては、寺山先生と父ちゃんの長太郎に対する態度は「そうじゃないのに!」「違うのに!長太郎が悪いんじゃないのに!」という苛立ちに繋がるのですが、これは自ら進んで邦彦の罪を被った長太郎から口止めされた邦彦の気持ちに似ている感情ではないか、と思いました。邦彦の場合、そこに自分がやらかしたこと、罪の意識が重なって、より苦しい思いをしていることは、邦彦の態度や長太郎を気遣う言葉から分かります。

事の発端は、邦彦と長太郎が時間差で登校途中であったあっこちゃんとの出会い。あっこちゃんが風船を木に引っ掛けたのを長太郎が取ってやり、下校した時に邦彦がそのあっこちゃんといるのを長太郎が見て、邦彦も同じようにあっこちゃんと出会っていて、あっこちゃんが去年交通事故で亡くなった自分のママ宛の手紙をつけた風船を飛ばしているのを知った邦彦が一緒に風船につけた手紙を飛ばすんだと。邦彦も、また母親が他界していて、そんな邦彦は母親を亡くしてしまったあっこちゃんに自分を重ねていたんだろうなと。

長太郎と邦彦があっこちゃんに会った日の理科の授業で空気よりも軽い気体について学んだ時に、邦彦は水素ボンベを使って風船を膨らませて欲しいと寺山先生に頼んでいます。また、邦彦がそれを頼む前に、寺山先生から邦彦が火災予防運動の小学生ポスターコンクールでちとせ第一小学校が一位になり、邦彦が個人で特選となったことを発表しています。

あっこちゃんとの出会い、理科の授業でのこと、邦彦が火災予防運動の小学生ポスターコンクールで特選になったことが、邦彦が起こした事故の罪を長太郎が自分から進んで被る原因になっています。邦彦は最初は寺山先生にお願いをしましたが、あっこちゃんから多くの風船を貰った時は、断り切れず、こっそりと理科室に忍び込んで一人で勝手に水素ボンベを使って風船を膨らませて、事故を起こしてしまいます。

宿題を忘れて廊下掃除を言われていた長太郎は、その邦彦が起こした事故にいち早く気が付き、すぐに駆け付け、邦彦があっこちゃんの為に風船を膨らませていたことを知ると邦彦に固く口止めをして自分がやったことにして罪を被ります。邦彦が立ち去った後できた寺山先生に自分がやったと嘘をつき怒られる長太郎。

邦彦の苦しみ

ここから、見ている私自身も邦彦と同じ苦しみを感じていくことになります。邦彦の場合はそこに罪の意識もあったと思うのです。それは長太郎に罪を被せたこと、嘘をついていること。邦彦が嘘をついていることが苦しいというのは、本人が実際に言っていて、また、誰にも言えないがゆえにノート(おそらく日記)には、真実を書いて、自分自身を責めていることからも分かります。

寺山先生や父ちゃんに罰を与えられて、父ちゃんからはいつものように張り倒されて、飯抜きの上、物置で寝るようにされた長太郎もとても辛く苦しかったと思いますが、邦彦とあっこちゃんの為なんだという思いが、長太郎の中に自分に正義(理)があると思わせ、長太郎の矜持を保つことが出来て、苦しみを緩和出来たのではないかと思います。

一方で邦彦にはそれがなく、ただただ、自分が狡く長太郎に罪を着せ、苦しみを与え、周囲を欺き、自分がクラスの誇りとして持て囃され、それだけでなく、自分のせいで悪者にされている長太郎を見ているしかないのは、どんなに辛いことなのかと思うと、邦彦の苦しみの重さに恐ろしくなります。

自己満足

長太郎の気持ちに応えるために黙るしかない邦彦は、その苦しさを唯一、話せる長太郎のところに行きますが、長太郎は黙っているようにと強く念を押します。これは、邦彦の為でもあるとは思うのですが、長太郎自身の為でもあるようにも思うのです。邦彦は長太郎への申し訳なさもあるとは思いますが、自分自身の苦しみから逃れたいという気持ちも強くあったように思います。

この邦彦の気持ちはとても分かりやすく、理解されやすい気持ちだと思いますが、長太郎の邦彦を庇うのが長太郎自身の為というのは、とても分かりにくいものだと思います。或いは、長太郎自身の為というのは、私だけが勝手に受け取ったもので、作り手にはないものかもしれません。

それでも、私がこの話での長太郎が邦彦を庇う長太郎から感じ取ったものは、あっこちゃんと邦彦を見て、母親のいない2人の寂しさを感じ取った長太郎が、この2人の為に自分が犠牲になることで、2人の為になっているんだという一つの自己満足感でした。長太郎の優しさを自己満足と捉えるのは、とても意地の悪い受け取り方だと思います。

けれども、邦彦がその苦しい胸の内を長太郎に打ち明けても、長太郎が邦彦に黙っているように強制したところに、私は長太郎の自己満足を見てしまうのです。

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『男!あばれはっちゃく』42話より

私が泣いた場面

私がこの話の中で、溜まらなくなって涙を流した場面は、邦彦の日記を読んだ邦彦の父親である佐藤部長が邦彦を問いただし、邦彦と寺山先生と一緒に桜間家に来て、頭を下げた場面です。

邦彦の父親は最初こそ、父ちゃんを下に見ていたり、長太郎に対して厳しい見方をしていて、長太郎に対して腹を立てて桜間家に怒鳴り込むこともありましたが、自分や邦彦に非があると分かるとすぐに自身の非を認めて、素直に謝ってきました。今回も佐藤部長は邦彦の方に非があることが分かると、それを隠すことなく、邦彦を問いただし、すぐに桜間家に行き、頭を下げています。

自分の部下である父ちゃんの家に足を運び、しっかりと謝る。自分の息子のしでかしたことでありながら、だからこそ、頭を下げる佐藤部長の姿に私は泣いたのです。佐藤部長は邦彦にとても甘いところはありますが、いいこと、悪いことの区別はとてもはっきりしていて、誤魔化すことなく正直に良い行いも、悪い行いもきちんと報告することで、それを褒め、悪いことをした時には、しっかりと叱ることの出来る大人です。

物事を中途半端に知って、本来、悪くない人間を怒ったりしたりもしますが、事の顛末をしっかりと知った後で、ちゃんと正しく評価が出来るのが佐藤部長なんだと思います。物事の良しあしは起きた出来事を正確に知る必要があるのも、『あばれはっちゃく』を見ていて思うことです。ひいては、それはこのドラマに限らず、現実世界にもいえることではないかと思います。

現実の世界で全てのことを正確に知ることは難しいことですが、だからこそ、当事者の話を聞いたり、証拠を集めたり、話や出来事の矛盾点がないかを知ることが大事なんだと思います。そして全てが分かった時に、どのように判断をするかが大事で、自分が途中で不完全な時に下した判断が間違いだと分かった時に、すぐに過ちを認めて正すことが出来るかが重要になっていると思います。

この過ちを正すことが、実はとても難しくて、意固地になったりしてしまうものですが、佐藤部長は過ちを正すことが出来る人。地位やプライドなどは関係なく、悪いことに対して頭を下げられる人であり、大人として尊敬できる一人です。私は、父ちゃんに頭を下げた佐藤部長にそうした尊敬する大人の姿を見て、泣いてしまいました。

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『男!あばれはっちゃく』42話より

大切にするもの

この話は、母親を亡くしたあっこちゃんと邦彦に同情した(あまり使いたくない言葉ですが)長太郎の優しい気持ちから起きた話ですが、長太郎は自分の母親が健在であることから、母ちゃんを大事にしなくちゃといいますが、長太郎のしたことで、母ちゃんがとても心配することになって、母ちゃんの気持ちも考えて欲しいな、大切にしなくちゃって言ったのにって思ったりもした話でした。

人には、大切にしないといけないものが多くあって、それの中でどれが一番だと決めるのは難しくて、そもそも、選ぶことは出来ないけれども、何かを大切にする時に、何かをないがしろにしてしまう可能性があることも覚えておいたほうがいいように思いました。今回の長太郎は、あっこちゃんと邦彦を思うあまりに、母ちゃんの気持ちをないがしろにしたことを忘れてはいけない。

全てが分かったことで、母ちゃんの気持ちも父ちゃんの気持ちも救われたけれども、そんな風に全てが上手く収まるとも限らないということも、現実の世界を生きる私たちは知っておく必要があるんだと思います。

私が小学生の時に好きなった漫画で、雑誌『なかよし』に連載していた、あさぎり夕先生の『あこがれ冒険者(アドベンチャー)』があるのですが、その最終回にこんな言葉があります。

「だから キミたちは えらびまちがえちゃ いけない いちばんたいせつな ものはなんなのか 恋人か 友人か 肉親か……? どうすれば それを失わずに すむのか よく 考えるんだよ」

この話を見て、この上記の言葉を思い出しました。『あこがれ冒険者』は私が高学年の時に連載されていた漫画でしたので、『男!あばれはっちゃく』42話本放映当時、幼稚園の頃にはなかったのですが、今ではこうしてDVDでドラマを見返して、小学生の時の読んだ漫画の言葉を思い出して、大切にするものを選ぶ難しさを実感を持って噛みしめることができるのだなって思います。

『男!あばれはっちゃく』41話「日本一!成人式」感想

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『男!あばれはっちゃく』41話より

1981年1月11日放送・脚本・三宅直子さん・監督・磯見忠彦監督

グダグダ考察したけれど

kakinoha.hatenadiary.com

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これまで、上記の過去記事でカヨちゃんが中卒か高卒かとウダウダと考察してきましたが、この41話で明確に答えが出ていましたね。もう、この41話を見ていた方、覚えている方、DVDで見返した方には、何を言っているんだという私の考察でした。せっかく購入したたのだから、ちゃんと見返しておかないとダメですね。2代目以降は、なかなか見返す時間がなかったのと、自分の思い出優先、見返したい話優先で見ていたのが悔やまれます。

予定通りにはいきませんが、現在は2代目を順繰りに見ている途中なので、こうした見落としや記憶が浅い話も、ちゃんと拾っていけると思います。時間はかかりますが、特に締め切りもない、趣味のブログですから、のんびりやっていこうかと思っています。

さて、今回はカヨちゃんの成人式が近く、また、カヨちゃんの高校の同窓会で再会したコック見習いの三浦ダイスケの話。カヨちゃんが同窓会の会場に着いた時に、カヨちゃんが卒業した高校とクラスが分かります。

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『男!あばれはっちゃく』41話より

上記の引用画像で、カヨちゃんの母校が群馬県立美里高校であることとカヨちゃんが3年2組だったことが分かりました。カヨちゃんは、1981年1月15日に成人式を迎えるので、生まれた年は1961年(昭和35年)。現在の天皇陛下が1960年2月23日生まれですから、カヨちゃんとは1歳、学年で言えば2学年差になりますね。

今の栗又さんの職業を知って見ると

今回は、カヨちゃんの高校時代の同級生であり、この話のゲストであるダイスケが見栄を張って新宿ニューシティホテルのコック見習いでフランスに行くと偽ることで話が発展していくのですが、これがホテルオークラのフランスシェフになったという栗又厚さんが長太郎の時代の話であることが個人的にはツボでした。

この話が書かれた当時は、未来で栗又さんがホテルのフランスシェフになっているなんて、栗又さん自身も含めて、誰一人として分からなかったんですよね。それが、現在こうしてDVDで見ることで、さらに栗又さんがホテルのフランスシェフになったことで、この話の見方が二重にも三重にも深く見えてきます。

一流のシェフになるのに、どれだけの努力を重ね、周囲の信頼を勝ち取ってきたのだろうかと思うと、そんな簡単なものではなかったと思います。けれども、ちゃんと結果を出された栗又さんは、日々のダイスケが文句を言っていた退屈で地味な仕事でも、一つずつ誠実にこなして、身につけて、それを習得するために何度も何度も練習をされたのだろうと思います。

私は栗又さんが、その時々の自分の力量を正確に見て、足りない部分を補うようにしていったのではないかなって思うのですね。この話がどれだけ栗又さんに影響を与えたのか分かりませんし、実はこの話が影響を与えたのでもないのかもしれませんが、少しは『あばれはっちゃく』で演じた話が大なり小なり、栗又さんの人生の支えになっていたりしないかなって思ったりもして、それは『あばれはっちゃく』だけでなないと思うのだけど、『あばれはっちゃく』もあればいいなって思ったりもします。

この話の中で、寺山先生が大人になるというのはどういうことかを長太郎達に話して聞かせていますが、それがどこか心の片隅にあったらいいなって思いました。私は大人になって見返してみて、寺山先生の言葉を含めて、この話から伝わるメッセージの表面だけしか受けとめてなかったんだなって私自身のこれまでの人生を振り返って思ったので、なんだかとても恥ずかしく思いました。

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『男!あばれはっちゃく』41話より

私自身とダイスケを重ねて

見てくれのカッコよさではなく、中身が大事だというのが、この話から見えてきて外側よりもその中身、仕事に対して、どのくらい真摯に取り組むかの大切さを伝えています。

ダイスケは苦労や努力をショートカットして、すぐにすごいと言われる位置に行きたいのが見て取れて、目の前の苦労をしたくないという気持ちが、大事にして自分の身につけていかなければいけない毎日の仕事を雑にこなしていて、キャベツを切るにしても、適当でいい加減で、勤め先のとんかつ屋の親方に怒れています。

私自身も厨房で働いていて、千切りが上手くできずに、何度も何度も怒られて、悲しくて悔しくて家に帰って、キャベツをずっと千切りの練習をしていて、キャベツなんてもう食べたくないというくらいにキャベツばかりを食べていた時期があったので、キャベツなんてどんなふうに切っても同じじゃないか、と愚痴っていたダイスケには、ちょっと腹が立ちました。

キャベツばかりを切って、千切りキャベツは細く手で切れるようになって任されるようになった時は嬉しかったです。でも、転職した先では、そこも厨房で働いたんですけど、センターで既に機械で千切りされて納品されていたので、私の千切りキャベツを切れる能力は家庭料理だけにしか役に立たなくなりましたけれども、それでも、苦労して身につけた技術は簡単にはなくならないものです。

背伸びをして、現在の自分以上に見せようとするのではなく、現在の自分の力をしっかりと把握して自覚し、自分がなりたい未来の自分に近づけていくために、日々のつまらなくて退屈な仕事を一つ一つ、丁寧にこなして身につけていく。それは、口で言うほどに簡単ではありません。私自身がそうでしたが、途中で自分のサボりを正当化して投げ出してしまうものです。

外見と中身

ダイスケも中身を充実させることなく、体裁だけを整えて、周囲からすごい仕事をしているんだって思われたい、そう思われて威張りたいという考えでしたが、働いているとんかつの親方が自分のことをちゃんと見てくれていて、成人式のスーツを用意してくれたり、とんかつ屋の見習いとして期待されていることが分かってから身の丈にあったありのままの自分を受け入れて、仕事着で成人式にいこうとしたダイスケの姿はとても良かったなあって思いました。

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『男!あばれはっちゃく』41話より

カヨちゃんもダイスケに感化されて、母ちゃんが用意した振袖ではなくて、仕事着を選んでしまったのは、カヨちゃんの気持ちも分かるけれども、晴れ着を着ていってほしかったなあって思いました。

着るものでななく、中身と心ではあるんですけれども、それでも、今の自分を外にしっかりと見せるという覚悟も必要なのかなとか、外見とか外から見て立派なところで仕事をしているとかではなく、その仕事の内容や取り組み方の姿勢の問題だということを伝えながら、外見の服装を重視して終わるというのが不思議に思うと同時に、今の自分の中身を偽ることない服装という意味では、中身を重視しているのかなって思えて、自分の姿を外に見せる意味というのも、考えた話でした。深いですね。

おまけ・鏡開き

さて、この話が放送された日は1月11日だったのですが、この日は鏡開きの日ですね。鏡開きと言えば、私の子どもの頃は、お正月にお供えしてあった鏡餅を割って、お汁粉にして食べたのですが、この話でも桜間家はお汁粉を食べているんですね。四角いお餅なので、お供えしていた鏡餅を割ってお汁粉にしたのではないと思いますが、お汁粉を食べている長太郎達を見て、ああ、鏡開きしているんだなあって思いました。

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『男!あばれはっちゃく』41話より