柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

2代目『男!あばれはっちゃく』40周年にむけて

毎週各話感想を

こんにちは。いかがお過ごしですか?なんか、急に寒くなりましたね。皆様、体調を崩されていませんか?柿の葉は昨日、病院に行ってきて2本の注射を両腕に打ってきました。一応、風邪やインフルエンザではありません。持病の乾癬性関節炎の治療の1つです。この治療で29年以上付き合ってきた乾癬とも「さよなら」出来そうです。

皆様も、どこにもないたった一つのかけがえのないご自身のお身体を大事にしてください。

さて、柿の葉の近況はここまでにして、置いといて、現在、柿の葉は来年40周年を迎える2代目『男!あばれはっちゃく』を中心とした企画を1人で勝手に予定しています。

これは、初代『俺はあばれはっちゃく』で2年前に既にやったことなのですが、毎週当時の放送日と同じ日に『男!あばれはっちゃく』のDVDを見て感想を書くという、ただそれだけのことです。

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今年は、『俺はあばれはっちゃく』の放送開始から40周年で、お祝いの言葉がある中、40周年になる前に38周年で放送当時と同じ日に見て毎週感想を書くということをやった、ちょいと世間の常識からずれている柿の葉ですが、まあ、なんとか最終話までいきながらも、毎週更新が難しく、途中に休んだり、特別番組などで放送がなかった日に更新したりとすったもんだのヘロヘロになりながら、1話から最終話までどうにかこうにか書いてきた柿の葉ですので、初代の倍の話数のある『男!あばれはっちゃく』を最終話の感想まで書ききることが出来るか、温かく見守っていただければ幸いです。

『おれは男だ』

過日、こちらの記事をUPしました。

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記事を読んでくださった方から、『おれは男だ』が『俺は男だ!あばれはっちゃく』と『男!あばれはっちゃく』最終回以外でも、寺山先生がギターの弾き語りで歌っていたと情報を頂きましたので、毎週の感想を書く時に、寺山先生が『おれは男だ』を歌う場面も合わせて改めて作品を見返して、何話で歌っていたかを確認した上で上記の記事を訂正したいと思います。

来年まで待たずとも、今は2代目を中心に作品を見返している途中でもありますので、寺山先生が歌っている場面が判明した時点で上記の記事を訂正する予定です。

不充分な情報を記事にしてしまってごめんなさい。

2代目を見返すと、初代のリフレインの話やそれでいて微妙に違うところが垣間見えて、初代とはまた違う『あばれはっちゃく』の世界を作り上げているのが分かってそれが見ていてとても楽しいです。

初代のレギュラーだった人達も別役で出演されているのも、嬉しいし。

2代目については、また、来年の企画の毎週各話の感想を書いていく中で詳しく語る予定です。

では、皆様、来年からの企画がなんとかやれるよう祈っていてください。

大事な存在とは

『赤ひげ2』第4話「最愛の妻」の感想

『赤ひげ2』第4話を見ました。胃の病の妻を持つ浪人、鎌田の話。

最初の方で、鎌田が家に戻っても妻の声が聞こえず、姿が見えないので、鎌田の妻が存在しないのではないか?と思いました。

案の定その通りで、話を見ながら、鎌田が自身の心を保つために、妻を存在させているのではないか?と思っていました。

でも、そんな私の甘い考えを凌駕する展開が待っていました。

妻を亡くした鎌田が妻が生きていると思い込み、妻の世話をすることで自我を心を守っている、心の傷ついた人なのだと思っていたのですが、妻を亡くしたことで心が傷ついているのはその通りでしたが、鎌田は私が思っていたような心の弱い持ち主ではなかったのです。

鎌田は侍同士の決闘を止めたことで、沖田に目をかけられ、娘の志乃を嫁にと勧められますが、妻がいると断ります。

この時点で、妻、杉江が生きていると思い込んで鎌田は未来を生きることを止めたのかと思いました。でも、鎌田に決闘を止められ恥をかかされた侍が鎌田を逆恨みして襲ってきた時に、鎌田は亡くなった杉江の姿を見ます。

その時の油断で鎌田は怪我をし、小石川養生所で手当てを受けます。この時の鎌田の話から、私は自分の浅はかさを知りました。鎌田は妻が亡くなったことをちゃんと理解していたのです。剣の師範を目指して剣の稽古に励み、内助の功で支え続けていた妻が亡くなった時に御前試合を優先して、妻を看取れなかった後悔が鎌田を動かしていたのです。

鎌田が亡くなった杉江は沖田の娘でした。沖田が鎌田に詫びとして娘に持っていかせた「きんつば」は杉江が食べたがっていたきんつばでした。

でも、それを杉江が食べることは出来ない。御前試合に勝って、師範代になったからなんだというのか、自分を支え大事にしてくれた人は妻は杉江はこの世には存在しない。きんつばを一緒に食べる事もない。

この鎌田の悲しみが、最期を看取れなかった場面を思い出して、人間はその人がこの世に1人しか存在せず、亡くなってしまえばどんなに望んでも、どんなにお金を積んでも、どんなに偉くなって出世しても、決して二度と手には入らない。取り戻すことが出来ないのだということが伝わってきて、涙が流れました。

鎌田が油断するほどに杉江に似ていた志乃の存在が、決して志乃が杉江の代わりではないけれども、鎌田の激しい後悔と過去に止まった心を未来へ動かしていくのではないか?と感じられた終わり方でした。

鎌田の件を受けて、保本が妻、まさをの存在の大切さを再確認するのもいいなって思いました。

さて、今回、保本の父親が登場し、およねの足が治っている事もはっきり判明して、およねがどうなるかと思いましたが、まだ、しばらくおよねは小石川養生所にいることになりました。

これまでと違った立場で小石川養生所にいることになるおよねがどんな行動を取っていくか、周囲との関係を築くか楽しみです。

人でなしの柿の葉

遠慮と油断

私、柿の葉は人間関係の構築が苦手です。自分から相手に積極的に関係を作るのが出来ないのです。

人から嫌われている。嫌われ者の私が一緒にいたり、私と仲良くしてはその人にも被害が及ぶと考えてしまいます。

だから、人とは一定の距離を保ち、相手から見るとその人を避けているように、私がその人を嫌っているように見えてしまいます。実際に相手からそういうことを問いただされたことがありました。

その時は、相手が聞いてくれたことで、私がそれを否定し誤解はとかれましたが、こんなのは一つだけです。

仲良くなるのに時間がかかる私ですが、仲良くなると今度は私は図々しくなります。

相手が私を受け入れてくれたことに安心して、油断をしてしまい、気がつけば相手から距離を置かれて、疎遠になり、縁を切られてしまうのです。

時に、相手の事を心配して声をかけたいと思いながらも、今、大変な時に私との時間を作る事は相手の負担になってしまわないか?相手に私の手紙、メール、文章を読む時間で体力と心を消費しないか?相手を気遣いながらも、結局は相手に私の存在をアピールするだけの自我を押し付けていないか?といろいろと考えて、結局は何も相手を気遣う言葉を相手に差し出すことなく、何もしないまま時が過ぎていきます。

私は、自分の身勝手さをよく分かっているので、仲良くしてくださる方にとって、負担がかかり、その方が私よりも付き合いが長く、信頼している人が私のような人間を信頼してはいけないと諭されれば、私は相手を思いやる言葉や行動を頭や心で思っていても、それを実行したらどうなるか、私のような人間が出しゃばって失敗したらどうなってしまうか、私の自己満足の相手に私を認めて欲しい承認欲求を満たす為だけに、相手の都合も考えず押し付けてしまうのではないか?と考えてしまうので、どうしても、どんな方でも壁を作ってしまいます。

私が必要最低限の言葉しかかける事が出来ない時、何かしら情報がない場合で相手に伝える内容がない時は、熟考した上でそれ以上の言葉を紡ぐと自我の押し付けになってしまうから迷った挙句に止めたということです。

それでも、好きな話題には、つい自分の知識を誇示したい悪い私の性格が出ます。

自分に自信がないくせに、人から嫌われる人間のくせに、人に何かしら与えることの出来る人間だと錯覚して、気持ちよくなって、相手の事を考えずに自我を出して押し付けて、快楽の中で気持ちよく溺れてしまうのです。

その後で激しい自己嫌悪に陥り、私は自分の気持ちを人に押し付けるのがとても怖くなって、相手が心配でも声をかけられない「人でなし」になります。

元々、優しさのない「人でなし」なので、それを自覚するだけなのですが。

こんな人間が『あばれはっちゃく』を通して、人の心を伝えるのも可笑しな話です。

それでも、『あばれはっちゃく』と柿の葉は別物。

このブログの管理人柿の葉は薄情で人でなしです。

私とは切り離して『あばれはっちゃく』という作品を楽しんで頂ければと思います。

人でなしの私も少しでも、心ある優しい人になるために『あばれはっちゃく』を何度でも読み、見ていきたいと思います。

江戸っ子の長太郎は何代目?

田舎からきたガキ大将

Twitterリツイートで、私が生まれた年1974年に放送された児童ドラマ『おらあガン太だ』(1974年)を紹介するツイートが流れてきました。

私の知らない作品ですが、紹介したツイートの写真で見たガン太を演じたすのうち滋之さんは『5年3組魔法組』(1976年12月6日~1977年10月3日)でガンモを演じていたので、顔に馴染みがありました。

話は信州の田舎から出てきたガン太が騒動を繰り広げる話ということで、当時、見ていた方達のリプが飛び交っていました。

その中で、田舎から来たガキ大将が騒動を起こすのは、『あばれはっちゃく』みたいですね。というリプがありました。

確かに、この意見は一部当て嵌まります。

転校生ではなかった原作と初代長太郎

一部と書いたのは、『あばれはっちゃく』の長太郎は原作と吉田友紀さんが主演した初代『俺はあばれはっちゃく』(1979年2月3日~1980年3月8日)は転校生ではないからです。

原作の長太郎は「美玉市」という架空の「市」に住むガキ大将。初代長太郎も同じく美玉市に住んでいますが、ドラマを見ていくとその舞台が「神奈川県美玉市」だということが分かります。

これは、これまでの過去記事で検証していますので、そちらもご覧ください。

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しかし、『あばれはっちゃく』は2代目『男!あばれはっちゃく』(1980年3月22日~1982年3月27日)から最終作『逆転あばれはっちゃく』(1985年3月5日~9月21日)までは長太郎が転校生になります。

2代目長太郎は群馬県、3代目長太郎は栃木県、5代目長太郎は茨城県から東京に来た転校生です。

3人は田舎から東京に出てきた転校生として当初はいじめにあいます。酷かったのは、2代目と5代目だと思っていますが、特に5代目は洒落にならないいじめだったと個人的には思っています。

2代目も何か事件が起きるとすぐに犯人扱いされたり、長太郎を騙して音楽の先生を驚かす役目をさせて悪者にしたりと精神的に、長太郎の人望と信頼を貶める酷いいじめでしたが、それに加えて5代目はゴミ置き場の冷蔵庫の中に長太郎を閉じ込める等の肉体的、一歩間違えれば命に係わるいじめだったのが、2代目以上に酷いと感じた所以です。

3人は田舎者として馬鹿にされ、それを「あばれはっちゃく」らしく跳ね返し、自分の気持ちに正直に真っすぐ素直に騒動を起こしつつ、大人達に怒られながらも、いじめていた同級生や見下していた大人達の信頼を少しずつ得て、長太郎は長太郎の居場所を作り上げていきます。

既に自分の居場所を確保していた原作と初代長太郎とは違います。初代長太郎も2話で正彦が来たことによって、11話で仲間外れにされるというように、築き上げた居場所がなくなりそうになる話もあったり、一部の大人達からはやっかみ扱いされていたところはありますが、よそから来た転校生ではなかったために、田舎者としていじめられることはなく、逆に東京からきた正彦やヒトミちゃんの従弟のサトル君が東京からきたいけすかない「東京者」として、長太郎が文句やいやがらせをする展開がありました。

余談ですが、私、柿の葉の父は東京生まれの東京育ちでしたが、中学生時代に家庭の事情で、東京から私の祖母(父の母)の実家の千葉に住んでました。その時に「東京者」としていじめられていたことを話してくれました。

田舎から東京に出てきても「田舎者」としていじめられ、東京から地方にきても「東京者」としていじめられるっていうのは、日本が田舎、首都関わらず、村社会、よそ者には厳しい国民性なんだなって、子ども時代に私自身が父が転勤族で転校が多かった実体験と合わせて感じるところです。

2代目から地方からの転校生にしたのは?

初代『俺はあばれはっちゃく』は、原作『あばれはっちゃく』を下敷きにしているので、原作に忠実なところが後の2代目以降よりも多いです。原作の『あばれはっちゃく』は読売少年少女新聞1970年6月2日~1972年3月30日まで連載されました。

連載終了の7年後の1979年2月3日に『俺はあばれはっちゃく』として、初ドラマ化されます。

『おらあガン太だ』はこの原作『あばれはっちゃく』とドラマ『俺はあばれはっちゃく』の間の1974年に放送されています。

ガキ大将が騒動を起こすのは、同じだとしても、ドラマ『俺はあばれはっちゃく』は原作『あばれはっちゃく』のドラマ化なので、『おらあガン太だ』の影響は実際のところ受けていないと考えます。なにより、原作の『あばれはっちゃく』の方が『おらあガン太だ』よりも、4年も古い作品なのですから。

しかし、かつて山際監督がインタビューで語っていますが、既に1970年代後半では「ガキ大将」とは古い時代のものとなった時代でした。その時代に『あばれはっちゃく』を1979年でドラマ化しようとしたのは、原作とドラマ『あばれはっちゃく』の間に他局で制作会社も違いますが、ガキ大将を主役にした『おらあガン太だ』があって、それが一役買っていたと考えることも出来ます。

これはあくまで私の推測ですが、古いガキ大将を主役にした作品をドラマにするきっかけ、さらに古くなった時代で「あばれはっちゃく」を描くときに『おらあガン太だ』がなにかしら、『あばれはっちゃく』に影響を与えていたかもしれません。

既に原作終了から7年後の1979年にドラマ化した時点で「ガキ大将」は過去のものとなり、2代目が始まった1980年では、さらに過去になっていました。

2代目以降の長太郎を東京以外の地方からの転校生にしたのは、1974年の『おらあガン太だ』の先例があったからかもしれません。

そっちが江戸っ子なら、こっちは美玉っ子よ!

        (『俺はあばれはっちゃく』27話より)

初代長太郎は正彦だけでなく、東京からきたヒトミちゃんの従弟サトル君とも張り合っていましたが、2代目以降では東京の子ども達に対するアンチテーゼとして、都会での異質の存在として、よそから来た東京の人間に対してではなく、東京にきたよそ者として「あばれはっちゃく」を描こうとしたのが2代目以降の『あばれはっちゃく』なのでしょう。

タイトルの質問の答えと4代目は?

さて、ここでようやくタイトルの回収に入ります。ここまで、辛抱して読んでくださった特に4代目『痛快あばれはっちゃく』(1983年4月2日~1985年2月23日)の長太郎ファンの皆様、坂詰貴之さんのファンの皆様お待たせしました!

もう既に4代目坂詰長太郎ファンの皆さんには、今回のタイトルの答えが分かっていますよね。

そう、ドラマ版の5人いる長太郎の中で唯一の江戸っ子のあばれはっちゃくは4代目長太郎です。

初代長太郎は神奈川県在住、2代目は群馬県、3代目は栃木県、5代目は茨城県からの転校生ですが、4代目長太郎は学区の区割りが変わっての転校なので、住んでいるところはそのまま東京都のままなのです。

 なので5人の長太郎の中では、4代目長太郎だけが東京生まれの東京育ちの江戸っ子になるわけなんですね。ここに来てくださる皆様には常識ですね。

ちなみに『あばれはっちゃく』はドラマ化に合わせてコミカライズされ『俺はあばれはっちゃく』と『男!あばれはっちゃく』が漫画になっていますが、ドラマとはまた別物であり、漫画版『俺はあばれはっちゃく』の長太郎は東京郊外に住んでいるので、漫画版『俺はあばれはっちゃく』の長太郎も江戸っ子になります。

ただし、ドラマ版の『俺はあばれはっちゃく』の長太郎は神奈川県美玉市です。

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あばれはっちゃく』が東京にきた田舎のガキ大将として覚えている人達にとっての『あばれはっちゃく』は2代目『男!あばれはっちゃく』、3代目『熱血あばれはっちゃく』(1982年4月3日~1983年3月26日)、5代目『逆転あばれはっちゃく』になります。

当時に見ていた人達がそれぞれに何代目のあばれはっちゃく世代かが分かって面白いです。

ずっと初代からシリーズを見ていても、2代目以降で強固にされたオリジナル設定の印象が強く残っていくのもあり、長太郎が転校生設定もその1つになります。やはり、私自身もそうでしたが、2代目以降のオリジナル設定が『あばれはっちゃく』を見ていた人達の定番として記憶に残っている傾向があるようです。

幻のあばれはっちゃく挿入歌

男!あばれはっちゃく挿入歌

『男!あばれはっちゃく』で使われた挿入歌の中に、レコードにも後のCDにも収録されていない挿入歌があります。この挿入歌は、『男!あばれはっちゃく』放送期間中に放送された1982年1月2日放送のスペシャル版『俺は男だ!あばれはっちゃく』と『男!あばれはっちゃく』最終回1982年3月27日放送に使われました。

『俺は男だ!あばれはっちゃく』では、全てが終わって隼人さん(演・吉田友紀さん)が去り、その隼人さんを探す長太郎(演・栗又厚さん)の映像に合わせて、ギターのメロディーが流れ山内賢さんの歌声がかかります。最終回では、寺山先生のピアノ演奏に合わせて、長太郎と寺山先生が歌います。最終回を見ると、スペシャル版の方も寺山先生が歌っていたと受けとめることができます。

フルコーラスで聞きたい

この挿入歌は『男!あばれはっちゃく』最終回エンディングテロップでタイトルと作詞、作曲が確認出来ます。

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『男!あばれはっちゃく』102話より

作詞をしたのは、初代『俺はあばれはっちゃく』(1979年2月3日~1980年3月8日)~5代目『逆転あばれはっちゃく』(1985年3月2日~1985年9月21日)まで、監督をされた松生秀二監督。作曲をしたのは、山内賢さんです。

歌の題名は『おれは男だ』

この『おれは男だ』は先に書いたように、私が調べた限りでは、レコード、CD化されていないので、歌を聴くにはDVDで作品を見るしかありません。

この挿入歌も『あばれはっちゃく』を彩る大切な音楽の1つなので、主題歌や歴代エンディング、挿入歌『はっちゃくまっしぐら』『はっちゃくひとりうた』と同様にCD等でも聴くことが出来たらと思います。現在は、CDよりはiTunesレコチョクを使った音楽配信が一般的かもしれません。

あばれはっちゃく』シリーズ全ての音楽のCD化か音楽配信があったらいいなって、そんなことを思います。

今までのCD化された『あばれはっちゃく』の音楽は時に触れCDで聞きますが『おれは男だ』も同じように聞きたい歌です。

追記(2019年12月1日)

『おれは男だ』は『男!あばれはっちゃく』70話で初登場していたことが、この記事を読んでくださった万江仁士さんからの情報で分かりました。

長太郎と寺山先生が河原でテントを立ててる場面で流れ、話の後半では長太郎、寺山先生、洋子さん、信一郎、かよちゃん、みゆきちゃん、母ちゃん達で火の回りに輪になって、寺山先生のギター演奏に合わせて歌っています。

70話は松生秀二監督、安藤豊弘さん脚本でした。この回では、挿入歌の作詞、作曲のテロップはエンディングにはありません。また、88話(磯見忠彦監督、田口成光さん脚本)で長太郎が歌い、97話(磯見忠彦監督、市川靖さん脚本)でも言及しています。

この2話に関しても万江仁士さんからの情報です。

検査が2つ減る

スケジュールが緩やかに

10月末に11月は病院通いで忙しくなると書きましたが、先週、担当医の先生から連絡を受けて、2回やる予定のツベルクリン検査がなくなりました。

その為に病院通いが2回減ったので、10月に危惧していたよりも、スケジュールが緩やかになりました。

過去に下書きで書いて置いてあった記事を完成させて記事をアップしたり、メモ代わりにしていた下書きに付け足して新たに記事を完成させたりなどして、忙しくなる前に記事更新をしていましたが、その必要もなかったようです。

とはいえ、明日18日から病院通いが続きますし、今週はちょっと忙しくなります。今週だけなので、ちょっと気が楽です。

画面の前と奥

『赤ひげ2』第3話「兄と弟の差」感想

『赤ひげ』第3話を見ました。3話では、画面の奥行きを使った映像が印象に残りました。冒頭で小石川養生所に担ぎ込まれた辰蔵が画面手前に、赤ひげ達医師達が間に入り、廊下で大工仲間が心配する姿、辰蔵、赤ひげ達、大工仲間の三層になっていて、それぞれの動き、様子が一度に分かります。

また、赤ひげ達の食事の場面で、奥に赤ひげ、赤ひげの右側に奥から津川、保本、田山の3人が一列に並んでいるのですが、映像で奥の方から、演技がされていき、或いは、画面手前の田山から始まっていて、保本のところで、津川、保本の2人から、保本、田山の2人になり、津川から始まって、保本を飛び越して、田山にいったり、津川から田山に飛んで会話をする流れで、この席順がとても無駄なく効果的に会話の流れを見せています。最大で赤ひげを入れて4人の表情や仕草が見られたり、2人だけをクローズアップして、表情を見比べる事が出来ました。

この食事の場面は、物語の最初と最後の方で繰り返されるので、より効果的です。

また、タイトルが出てくる前に辰蔵の家に片付けられたお膳のアップが出てくるのですが、この印象的なアップは後々に活かされてくるのだろうと、確信して最後まで見ていきましたが、やはり、その通りでした。

手前と奥で演技をさせるのは、小石川養成所に辰蔵の母親のおまさが来た時に、辰蔵と言い争う場面があって、奥の廊下側で保本がそれを見ている場面とか、辰蔵と辰蔵の兄、伸吉が殴り合いの喧嘩をする場面等に見られました。

もっとも、印象に残ったのは、賭博場のお堂がアップになって、段々、引かれていき、それを見つめる辰蔵の手元になって、その手を赤ひげが掴んだ場面でした。

赤ひげが小石川養成所を抜け出して、包丁をもって伸吉を殺そうとしたのを赤ひげがとめる場面ですが、手前で辰蔵がはなし、奥で聞いていた赤ひげがくるっと回って、辰蔵の前にかかって、手前と奥が入れ替わる場面は、綺麗な流線があってスムーズでした。

最後に辰蔵が自分のお金を盗んだと疑ったおよねに謝り、退院?(退所)していって、およねが嬉しそうに廊下に座っていて、それを奥から出てきた赤ひげが満足そうに見つめる場面があるのですが、その時に間におよねの足が映し出されていて、そこで視聴者は足を怪我したおよねの怪我の状態を知る事になります。

言葉だけでなく、映像で語る事も出来る事を改めて確認させて頂きました。

最後の終わり方もタイトルが出た後にアップになったお膳と同じようにお膳がアップになっていましたが、全ての話を見た後だと同じアップでも違った感情を感じて見られました。

今回の話は、第三者には分からないけど、本人が自分に価値があると思いたいのに思えないと卑下する悲しさが伝わってきて、やりきれなく、誰もが心に「穢れ」を抱えていても、本人が卑下するほどには人間は腐っていないんだっていうことを切なく感じた話でした。

私は、映像に関しては全くの素人で、殆どが人からの受け売り、或いは、これまで見てきたドラマの中で得た知識で語っています。

今回の画面の前と奥、モンタージュ理論などは、この柿の葉日記で『あばれはっちゃく』の感想を書いてきて知り合った元助監督の方からの受け売りです。

続く、第4話は怪我の状態が判明したおよねの行く末も気になります。また、来週の金曜日が楽しみです。