柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

#本名にかすってもないのについたあだ名

あだ名・愛称について

少し前にTwitterハッシュタグ「#本名にかすってもないのについたあだ名」が流行っていて、私もそのハッシュタグのお題にのって、「あばれはっちゃく・本名・桜間長太郎」とツイートしました。

長太郎のあだ名である「あばれはっちゃく」は、長太郎の性格からついたあだ名というか、異名です。あだ名は名前から捩ったあだ名も多くありますが、その人の性格や見た目やその人に纏わるエピソードからつくあだ名も多くありますね。

その中にはその人物の身体的特徴を誇示してつけたあだ名があり、それにはその人物に対し愛着を感じさせるものもあれば、その人物の身体的特徴を野次して馬鹿にして笑いの対象にして貶めるあだ名もあったりします。今では、後者のあだ名をつけてのイジメを防止するために、あだ名自体を禁止する小学校などがあるそうです。

私は、あだ名というか、愛称というのはその人物に対する親しみが込められてつけられるものであり、その人物をより身近に感じさせるコミュニケーションの手段の一つだと思うんです。

相手を馬鹿にしたり、傷つける目的でつけて、囃し立てるあだ名は論外ですが、それはそうしたあだ名や馬鹿にする気持ちやそれを娯楽にする感情や行動を正すべきで、愛情をこめてつけるあだ名までを一概に全て禁止するのは極端でどうかなって思ってしまいます。

その人の特徴(性格や見た目)からつけるあだ名は、その人物を良く知っていて、どんな人物であるかということを的確に見抜いてつけるもので、その人物に強い関心がないとつけられないものだと思いますし、一方で見た目からつけられるあだ名は第一印象から連想するイメージでつけるものもあるんじゃないかなって思うんですよね。

ただ、その相手に対する印象って、良い印象もあれば、悪い印象もあるわけで、相手に対して負の感情を持ってしまったら、心の中でその悪い印象から相手にあだ名をつけてしまっても、それをわざわざ口に出して、負の感情をぶつける必要もないんじゃないかなって思います。

ただ、悪い印象をもった相手には、「嫌い」という感情が出てしまいますから、その嫌いな相手の心を傷つける目的で、わざと相手にダメージを与えるあだ名を言ったり、流行らせたりするんじゃないかなって思ったりします。または、傷つける目的がない(無自覚)で、面白いから言ってしまうということもあるんじゃないかなって思います。

私自身が嫌いな相手ではないけれど、友達に面白いと思ってつけたあだ名の一つは、今、思い返してみると、とても相手を傷つけていたあだ名だと思うので、それが今でもすごく恥ずかしくて、それに気づくのが大人になってからで、友達に会えなくなってからというのが、たくさんある後悔の一つになっているんです。だから、そうしたあだ名をつけることは、友達も未来の自分自身も傷つけることになるんだよって、教えるべきじゃないかなって思うんですよ。私自身の過去の罪の経験から。

私が「あだ名」について不幸だなって思うのは、私自身もとても嫌なあだ名をつけられて苦しまされたことと、人の心を傷つけるあだ名を小学校の先生が、率先して生徒につけて笑い者にしていたのを見て育ったことで、人を笑い者にするあだ名をつけることが悪いことでないと学んでしまったことですね。

大人の中でも、先生は特に人として人の心を傷つけることが正しいという考えを児童、生徒に持たせるべきではないと思いますが、教師間や大人同士の関係でもいじめや人権侵害を平気でする世の中では、そんなことは綺麗ごとになってしまうのだろうなって思います。

最終作で時代に逆行する

初代『俺はあばれはっちゃく』では、主人公の長太郎を始めとして、あだ名がある登場人物が登場していました。長太郎の他にあだ名があったのは、公一で公一はドラマでは「もやし」、原作では「おんなのこ」と呼ばれていました。どちらも、公一の見た目からきていて、また、心が少し貧弱なところがひょろとした色白なもやしに似ているということでの比喩的な感じでつけられたあだ名でした。

現在では原作の公一のあだ名にあたる「おんなのこ」というのは、女性差別だと言われてしまうかもしれないあだ名になるんじゃないかなって杞憂してしまいます。こうして、どんな経緯や理由でつけられたのかを考えていくと、あだ名というのは、どんな人物かを一言で表現するためにあるのかなって思います。

また、『俺はあばれはっちゃく』22話では、長太郎が恵子ちゃんや明子、小百合の見た目からあだ名をつけた話もありました。ただ、それは殆ど悪口というもので、とても酷いあだ名でした。長太郎がヒトミちゃん達に騙されて腹が立ってつけたものなので、とても攻撃的で悪意のあるあだ名でしたね。ただ、これは本人達に向かって言ったのではなく、ドンペイに似顔絵を描いた正彦、公一、恵子ちゃんや明子、小百合の顔を覚えさせて吠えさせてる為にそれぞれの顔や身体的特徴を強く覚えさせる要素が強くあったものでした。

その時に長太郎がつけたのがあだ名が公一が「サル」、恵子ちゃんが「この馬鹿、ブタ」、小百合が「髪長おばけ」、明子が「目玉のおばけ」でした。正彦にはなくてただ「正彦」って呼んでましたね。ヒトミちゃんは似顔絵は描いたけれども、ドンペイには覚えさせませんでした。覚えさせる段階でヒトミちゃんに対しては冷静になったということですね。

『俺はあばれはっちゃく』22話より

また、公一も3話で恵子ちゃんを「眼鏡ブタ」と呼んでいて、その呼称でヒトミちゃんが恵子ちゃんと認識し、後で長太郎もヒトミちゃんへのラブレターに恵子ちゃんのことを「眼鏡ブタ」と書いていたので、恵子ちゃんの「眼鏡ブタ」というあだ名は、そんなに頻繁には出てこなかったけれども、案外と認識されていたあだ名の一つだったのかなって思ったりもします。

けれども、「あばれはっちゃく」シリーズの中で、クラスメイトに対してのあだ名がついていたのは、初代『俺はあばれはっちゃく』くらいで、2代目『男!あばれはっちゃく』からは、長太郎のクラスメイトのレギュラー児童に対して、これといったあだ名はなかったかなって思います。感情的に相手を攻撃する時に相手の特徴や性格を揶揄する時に「ガリベン」とか言うようなことはあったにしても。

それがシリーズ最終作になる5代目『逆転あばれはっちゃく』になると、あだ名が復活していて、ルリ子のことを「ブッチャー」って呼んでいたりするんですよね。女の子に対して男性プロレスラーのブッチャーとあだ名をつけるのって、結構、酷いなって、今の私は思うんですけれども、これって初代の恵子ちゃんが「眼鏡ブタ」と呼ばれていたのと同じぐらい酷いあだ名だなって思います。私自身が小学1年生の時に、上級生から「メガネザル」というあだ名をつけられてとても悲しい思いをしたので、嫌なあだ名だって特に思ってしまうんです。

なんというか、あだ名をつけるのに何の疑問もない時代の原作『あばれはっちゃく』、ドラマ初代の『俺はあばれはっちゃく』の時代から、特にその人物の身体的、性格的特徴を誇張したあだ名をつけなくなってきた2代目『男!あばれはっちゃく』から4代目『痛快あばれはっちゃく』までは、昨今のあだ名禁止の小学校と同じ歴史をいち早く取り入れていたのに、ドラマ最終作5代目『逆転あばれはっちゃく』であだ名について原点回帰して、時代に逆行してしまっていた。それもそのあだ名をつけられた人物の心を傷つけるタイプのあだ名が復活していたというのは、現在の私の視点から見るとちょっと残念だったなって個人的には思いました。

負を正に変える

ちなみに「あばれはっちゃく」というあだ名は、つけられた人物、つまりは長太郎ですね。その長太郎の心を傷つける酷いあだ名なのか、それとも、愛着を持ってつけられた愛のあるあだ名、愛称なのかについてですが、それは『俺はあばれはっちゃく』の1話を見るとすぐに分かります。

あばれはっちゃく」というあだ名は、父ちゃんや佐々木先生から見ると、不名誉なあだ名なんですよね。けれども、長太郎はアバンタイトルの口上で言っているように、「あばれはっちゃく」と呼ばれることを「カッコいい」と思っているんです。そして、「あばれはっちゃく」という称号は名誉であるということが、2代目『男!あばれはっちゃく』から強く打ち出されていくんですね。

不名誉なあだ名でも、そのあだ名にどんな意味があるのか、その意味がどんな風に自分に当てはまっているかを長太郎は理解していて、破天荒でいろいろなことに挑戦して行動するという人物を表現する意味が「あばれはっちゃく」にはあるから、そんな人物だと評価されているなら、それはとてもカッコいいと長太郎は認識しているんだなって、私は思いましたし、そういうふうに自分をプラスに評価する。人がマイナスに評価することを反対にする長太郎の柔軟な考えが素晴らしいと感じました。

また、「あばれはっちゃく」を表す人物像に、義理人情に厚い人物であることも加わってきて、「あばれはっちゃく」は不名誉なものではない、誇り高いあだ名、愛称になっていきました。相変わらず、ヒトミちゃんやみゆきちゃんのママから見たら「あばれはっちゃく」なんてただの乱暴者のことじゃないのって感じなんですけれどね。

余程酷いあだ名でない限り(「バイキン」とか)、負の感情からつけられたあだ名であっても、正反対の意味に受け取って自分自身にとって、プラスのあだ名に変えることも出来ることを私は『あばれはっちゃく』から学びました。後、あだ名、愛称ということでタカラジェンヌの愛称についても少し触れたいなって思いましたが、ちょっと長くなったので、またいつかの機会に。