柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

『男!あばれはっちゃく』67話「真犯人は誰だ?」感想

『男!あばれはっちゃく』67話より

1981年7月11日放送・脚本・田口成光さん・川島啓志監督

後出しじゃんけんのように

この話はステンドグラスの題材に借りた校長先生の埴輪が壊れたのを巡って、誰が埴輪を壊した犯人なのか、壊れた埴輪をどうするのかが主軸になって話が展開していきます。まず、休み時間に長太郎が運動場で投げたボールが校長室のガラスを割り、植木を壊したところから始まり、長太郎が不可抗力とはいえ、よく校長室の物を壊しているという印象付けから始まっています。

その上で、ステンドグラスのデザインのモデルとして、長太郎達の班が校長先生の埴輪を借りて作ることになり、長太郎と克彦で校長先生に埴輪を借りにいき、2人が教室に戻ってきたところで、一緒の班のみゆきちゃんが埴輪を触ったことで、埴輪の首が取れてしまいます。

『男!あばれはっちゃく』67話より

ここまでの流れを素直に見ていくと、みゆきちゃんが触ったことで埴輪が壊れてしまったとなり、例によって長太郎がみゆきちゃんを庇ってくるのですが、この話を最後まで見て、話を見返してみると、長太郎と克彦の様子が少し変というか、怯えているように見えるんです。初見では、みゆきちゃんが壊したことで動揺しているように見えるのですが、次々と後出しじゃんけんのように犯人だと思っている人物の視点での回想シーンで真相が分かってくると、長太郎と克彦の表情や様子がみゆきちゃんを心配したものだけではないことを感じ取れるのです。

誤魔化しが良心を苦しめる

サブタイトルのように、この話では埴輪を壊したと思われる犯人候補が後から出てきます。それも、その犯人が埴輪を壊した場面を視聴者は見ていくことになるので、ああ、この時点で壊れてしまったのだ。この人物が犯人なんだと分かっていくのですが、自分以外に目撃者のいない犯人達は、自分が犯人になった前後の犯人を知らない状態で、自分が犯人ではないように振舞っていくのです。

みゆきちゃんの場合は、いつもの班のメンバーが見ていたこともあって、誤魔化すことは出来ず、心当たりのある犯人はどうにかその場を取り繕うとします。なんとか、直して済まそうとする長太郎と何かを決心してワシントンになるんだと校長先生の元に向かった克彦。

ここで克彦のワシントンになるという意味が分かった人は、犯人が誰かの目星がつくわけですが、その犯人の目星がついてその犯人の視点で事件が解決しても、長太郎やみゆきちゃん達の視点からは解決しておらず、長太郎が家に埴輪を持って帰ったことで、新たな犯人となる父ちゃんが出てきます。

父ちゃんも自分の犯行を誤魔化そうとするのですが、それを長太郎に利用されてしまいます。利用というと言葉が悪いのですが、長太郎がなんとかみゆきちゃんの罪をなかったことにするために、新たな犯人となった父ちゃんに罪を擦り付けるさまは「利用」という言葉が適格だと思います。

私は長太郎の一つ悪い考えに自分が守るべき大切な人の為なら、誤魔化しや嘘、他の人物に責任転嫁をして難を逃れようとする考えは、その時にその大切な人を一時的に守ることは出来るけれども、根本的な解決ではない発想をすることがあるように思います。この長太郎の考えで42話「笑え!風船マル秘作戦」(脚本・安藤豊弘さん・磯見忠彦監督)で邦彦が苦しんだことがあります。今回も正直に謝ろうとしたみゆきちゃんはとても気にしていて苦しんでいました。

意味が分からない

私は、この話の意味が良く分かりませんでした。ワシントンの桜の話に絡めた教訓話としては、克彦が正直に話して一応の解決を見た後でも話が続いたこと。そこは、一旦解決したように見せかけて、実はまだ真の犯人がいる、話は続いているんだよという話の謎を深めて面白く話がまだ続いていることにしたかったのかなと思うところもあるのですが、見ていくと、また新たな犯人が長太郎だとすぐに分かるようになっていて、更には、別に犯人になる父ちゃんが出てくる始末。

その新たに分かった犯人も、別に出てきた犯人も視聴者目線から見たら、真犯人ではないことは明白になっている。その犯人達はそれを知ることなく、なんとか自分の犯行を誤魔化して、責任転嫁をして罪を逃れようと動く。そこからは、責任逃れと自分と自分の大切な者以外が助かればそれで良いというものしか感じ取れませんでした。

結局は本人も納得して、責任を取らされる形になった最終的に自分が埴輪を壊した犯人にされた父ちゃんは、最後の最後で自分が行くべき校長先生の謝罪を母ちゃんに頼むことになりました。そこで、ようやく事件の真相、真の犯人が分かるのですが、それを知っても、見ていた私の心はすっきりしませんでした。

いたずらの意味が意味不明

この話の最後のオチ、真相を握っていたのは校長先生で最後の校長先生の話で全て話の真相が分かるのですが、私はこの時の校長先生は何を考えているのだろうと思いました。話の最初で長太郎に校長室の物を壊されてきた校長先生のちょっとしたいたずらにしても、途中で正直に名乗り出た者が出てきた時点で、まだ何も知らない長太郎達も呼んで、そこで真相を話すべきではなかったのか。校長先生でなくても、寺山先生もいたのだから、寺山先生から話がなかったのかがとても疑問に感じました。

また、この話で結局、長太郎が校長先生から借りた埴輪を盛大に壊してしまうのですが、これを最初の方で長太郎を「学校一の壊しや」と言われていることに重ねて見せた回収だとしても、長太郎の代わりの物が用意できたからといって、借りた埴輪を壊す理由にならないと私は感じたので、なぜ、壊すのか。父ちゃん達も長太郎の言葉にどうして納得するのか理解不能でした。

校長先生の自分のいたずら心が児童の良心を苦しめたことを笑っている姿、全てを知っているくせに上から目線で許してやった態度などを見ていて、なんというか、私は不愉快に感じました。最後にそんな校長を嘲笑うかのように、植木鉢の直した欠片が落ちるところは、笑えない校長のいたずらに対する細やかな神様の仕返しに見えました。

『男!あばれはっちゃく』67話より

私の中で

これは私がこの話を見た感想に過ぎません。けれども、私の中でこの話は謎解きとしても、教訓の話としても、なんとか誤魔化してやり過ごそうとした話としても、さらには常日頃物を壊されて困っていた校長がいつもの加害者たちをやり込めようとした話として見ても笑うことが出来なかった話でした。

私は基本的に「あばれはっちゃく」の話は好きな話が多いのですが、今回の話のように自分の性に合わない話もあります。過去の感想記事でも自分の性に合わない、見ていて納得がいかない話に関しては、そのままそれを書いてきました。この話を好きな方達には申し訳がないのですが、今回の話は、私の中でとても消化不良の話でした。

今回は私が話に疑問を感じたことで素直に楽しめなかった話でしたが、好きだからと言って全てが好きという訳でもなく、疑問に感じたり、しっくりこない話もあるのは、仕方がないところもあるんだなと。人それぞれ、考え方や感じ方も違う訳ですから。