柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

『あばれはっちゃく』に関する記事についたコメントを見て思うこと

初めに

昨日、紹介した『あばれはっちゃく』に関するYahoo!記事についた『あばれはっちゃく』に対してのコメントを読んで、私がTwitterで書いた呟きをそのまま出します。人それぞれ、作品に対する思いや思い出等があると承知した上で、『あばれはっちゃく』が好きな私が思ったことをそのまま書いています。人によっては不愉快になる人もいると思いますので、『あばれはっちゃく』が嫌いな方、父ちゃんの暴力が嫌いな方は読まないことをお勧めします。

一部のヤフコメを読んで思ったこと

あばれはっちゃく』をDVDで見返して思うのは、夢破れた大人たちが登場してくる話が結構あること。当初の夢が壊れて人生が一度終わっても、ちゃんとその続きの人生があって、セカンドキャリアを歩んでいく大人達が出てくる。夢は叶うことも出来るし、叶えた後で挫折することもあると語る。

努力が実ることも、努力が実のならないことも、ドラマの中で描かれていて、努力が実のならないのは本人の努力不足だったり、外的要因が原因だったりする。夢は信じて努力すれば叶うものでもあるけれど、場合によっては叶わないこともあるんだと。長太郎が出会う大人達を通して伝える。

夢破れた大人たちが、子ども達のがっかりする対象ではなくて、もう一度頑張ろうとする大人達や大人の持つ可能性を子どもが信じる形になっていて、なんというか、一度失敗した人間だから、ダメというような描き方ではないんだよなあ。大人になって見ると、そういう大人と大人を信じる子どもに救われる。

それから、この間のYahoo!記事についたヤフコメの中に父ちゃんの暴力に対しての批判があったんだけど、長太郎が父ちゃんの叱るのではない八つ当たりの暴力に対して反抗していたことを忘れている人達が多いんじゃないかって思った。長太郎は理不尽な暴力にはちゃんと反発しているんだよ。(初代『俺はあばれはっちゃく』の5話とか見てごらんよ)

だから「あばれはっちゃく」は父ちゃんの暴力の躾を肯定するドラマではなくて、理不尽な八つ当たりの親の暴力には子どもが反発するし、ちゃんと子どもを思って叩いてくれることに対しては受け入れているってこともちゃんと見ないといけないし、親も自分が八つ当たりで子どもに当たるのか、子どもを思い、心配でつい手が出てしまうのか。心配で手が出てしまっても、それが本当に子どもにとって良いことだったのか。子どもは親がどんな切ない思いで自分を叩いたのかという気持ちを自身に重ねて見ていたか、見るのかがとても大切なんだって思うんだ。

表面的にドラマを見ている人が多いって、「あばれはっちゃく」に関する記事についたヤフコメを読んで思ったな。放映中から「あばれはっちゃく」が暴力的で嫌いと批判していた人達がいたのは、生前の東野英心さんの自伝で知っていたけど、今でも今だからこそ、そういう表層で作品を批判する人が増えてしまったなって思う。

それでも、当時、『あばれはっちゃく』が人気があったのは、長太郎の理不尽な暴力に対する反発、長太郎を叩く父ちゃんや母ちゃん、先生の思いを理解する人達も大勢いたからだと思っている。また、長太郎も常に正しいわけではなく(特に初代)、間違いを犯すし、その間違い(仲間外れなど)を厳しく叱ることもあって、子どもも大人も間違いをするし、感情的に動いてしまうし、それを後悔もする姿が見ている人の心に響いていたからこそ、支持されていたんだって私は思っている。

私の思いや考えが正しいかどうかなんて分からないけれど、私はそれでずいぶんと『あばれはっちゃく』という作品に救われてきたから、私はそう信じている。ただ、それだけのお話。他人がどう思っているかまでは分からない。私のこの思いを鼻で笑う人もいるんだろうけれど、きっとどこかで賛同してくれる人もいるんだって信じている。