柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

信じきることの難しさ

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『痛快あばれはっちゃく』34話より

『痛快あばれはっちゃく』34話「サイコロ・テストだマル秘作戦」1983年11月26日放送・脚本・安藤豊弘さん・川島啓志監督

人を信じきることが出来ますか?

『痛快あばれはっちゃく』34話「サイコロ・テストだマル秘作戦」は、まゆみちゃんが算数の抜き打ちテストで不正をした疑いをかけられて、長太郎を除くクラスメイト達から仲間外れにされてしまう話です。

事の始まりは、広田先生が出張して、その代理にまゆみちゃんのお父さんの春日教頭先生が5年3組の授業をすることになったこと。その当日の登校途中にまゆみちゃんのランドセルの中身がこぼれてまゆみちゃんの教科書が散らばり、それを拾った時に算数の教科書にあるしおりやメモを長太郎、信彦、清、マヤ、とし子の5人が見ていて、その当日に広田先生の代理としてきた春日教頭先生が算数の抜き打ちテストをして、そのテストでまゆみちゃんだけが100点を取ったことでした。

最初に信彦が春日教頭先生がまゆみちゃんにテスト内容を教えていたのではないかと疑念を抱き、確認のためにまゆみちゃんの算数の教科書をまゆみちゃんがいない時に確認をして、その算数の教科書のしおりやメモの場所を見せて、マヤやとし子にもまゆみちゃんが算数のテストで不正をした可能性を話し、3人で確認をしたことで疑惑を確かなものにした信彦達はクラスメイトに呼びかけ、春日教頭先生が予定した補習授業を長太郎を除くクラス全員でボイコット。

この話は、まゆみちゃんを疑うだけの要素、材料、証拠が確実にあって、また、その疑惑をまゆみちゃんに話した時に、身に覚えのないまゆみちゃんでも家で春日教頭先生がまゆみちゃんの算数の教科書を借りたやり取りから、今度はまゆみちゃんがお父さんの春日教頭を疑う展開になっていって、本当にまゆみちゃんと春日教頭先生は算数のテストで不正をしてなかったのか、と視聴者も疑念を抱くようになっています。

つまりは信彦達だけでなく、視聴者の私達もまゆみちゃんや春日教頭先生を信じることを試されているのです。

この中で一度たりとも、まゆみちゃんも春日教頭先生も疑わなかったのがただ一人長太郎だけです。長太郎は補習授業をボイコットの主犯として春日教頭先生に疑われても、春日教頭先生が不正をしたことを疑わず、逆に春日教頭先生を信じられない気持ちになっていたまゆみちゃんに喝を入れていました。

長太郎がまゆみちゃんを信じるのは、ただ一つ、まゆみちゃんが大好きだから。これまでまゆみちゃんと一緒にいて、まゆみちゃんがそんなことをしない人だって分かっているから。それは、春日教頭先生に対しても同じで、長太郎はそれまでの付き合いの中で、2人を信じることが出来る人だって分かっているから。

それは、信彦達も同じなのに、自分達が見たものを自分達が考えたことに当てはめて、それを信じてしまった。信彦達が見たものも事実ではあるけれども、自分達が想像した春日教頭先生がまゆみちゃんにテスト内容を教えて贔屓したという物語を補完するために都合の良い証拠だけを集めてみて、他の事実を、それを否定する事実を見ようとしなかった。

まゆみちゃんが言った算数の教科書のしおりやメモは授業で広田先生が重要だからといったからメモして、復習していたという言葉を信じなかった。広田先生が授業でそう言ったことはマヤ達も思い出したのに、そこを無視してしまった。自分達の組み立てた不正のストーリーを否定する事実には目をつむってしまったから、信彦達はまゆみちゃんを信じることが出来なかったのです。

これを久しぶりに見て思ったのは、今の現実で私自身が体験してきたことと同じなんだということでした。リアルでもネットでもそうですが、人は自分が見た、信じたことだけが真実だと思って、自分には見えない部分や知らない部分に目を向けず、あるいはそこに同じように事実や真実があっても、自分の組み立てた物語に都合の悪い真実や事実はなかったことにして、自分にとって都合の良いように推測したことにあった話を作り上げて、人を悪者にして、正義の味方を気取って人を攻撃し、挙句の果てには自分が集めた証拠と作り上げた物語を拡散して攻撃する仲間を増やして攻撃をしてきます。

攻撃された方は身に覚えがなく、また誤解されていると思うので違うという証拠や誤解である説明をしても、こちらの提示した証拠は信じてもらえず、誤解の説明は下手な言い訳としてさらに攻撃する材料にされてしまいます。

人を疑い、悪者にする時に自分達で組み立てた物語を否定する事実には目を向けず、人を悪者に出来る内容だけをかき集めて、悪者にしたてあげて、それをネットで拡散して誹謗中傷をする人が現実にいて、それに遭遇してきました。この『痛快あばれはっちゃく』の話は私が小学生の時の話ですが、現在にも通じる話だと思います。

人を疑うにはそれなりの理由や根拠があり、それが確かなものになっていくと、人を信じ抜くことは難しくなってしまいます。それでも人を信じること、そして自分にとって都合の良い情報だけを信じるのではなく、情報はすべて等しく受け取って、そこから正しい判断をすることが大事なんだと思います。

しかし、これはそう簡単に出来ることじゃありません。人は感情や状況に流されやすいからです。だからこそ、公平に事実を見つめ人を信じることがどれだけ難しいのかということを常に考えなければならないのだと思います。

過ちを認め相手に謝ることは出来ますか

この話は、信彦達がまゆみちゃんを疑い、春日教頭先生が長太郎を疑い、まゆみちゃんが春日教頭先生を疑っていくというように、次々と算数のテストとその補習授業に関して人が人を疑うという構造になっていますが、それぞれがその間違いを認めた時に、相手と向き合ってちゃんと謝っています。

人を疑うだけの状況や証拠があると人を疑って悪者にしてしまうことがあるのは仕方がないかもしれません。でも、それが間違いであったと気づいた時にちゃんと謝ることが出来るのかがとても大事なんだと思います。

最近は、謝ると負けなのかどうか分かりませんが、過ちを認めることが出来ずに素直に謝れない人も増えたように思います。自分の非は棚に上げ、誤解をさせた相手が悪いんだというロジックで自分は悪くない、逆に被害者だ!疑われ、悪者にされた人の悲しみや怒りに対して、逆恨みをする人も多く見かけるようになったなって思います。

じゃ、適当に謝ればいいんでしょ、謝ればという問題でもないのですが、それも理解できていない時や理解していない人もいるなって思う時があります。公平に事実を受け取り、人を信じきることと同じように自分の過ちを認め、謝ることが出来ることも、とても難しいことです。信彦達は自分達の中での疑念が消えるまでは謝ることは出来ませんでしたが、消えた時にすぐに謝ることが出来ていました。

私自身、そして最近のネットでの誤解から過剰に人を悪者にした時に謝れない人達を見ていると、「過ちを認めて謝る」という難しいことを自然に当たり前のように出来る信彦達の凄さを感じました。

現実に近いようでいて

あばれはっちゃく』の世界は魔法も変身も不思議な生き物やロボットも存在しない、私達が現実に生きている世界と全く同じで、それこそ私が子どもの頃に生きていた正に同じ世界の話でした。だから、子どもの頃の私は長太郎達も同じように生きていると思っていました。

現実とかけ離れていない世界でありながら、今見ると『あばれはっちゃく』がファンタジー、一つの理想世界だと思うのは、人を疑うことの愚かさ、人から疑われることの悲しさ、人を信じきることの大切さ、過ちを認め謝ることが出来ることが当たり前のように描かれているからです。

現実は人を疑うことが正しく、人を信じきって騙されてしまうことが多く、過ちを認めて謝ったら負けの世界になっていて『あばれはっちゃく』の世界が綺麗ごとの世界になっている。

それでも、私はこの綺麗ごとの世界である現実にとてもよく似た世界と今の私の生きる世界に近づけたいと思っています。それがどんなに大変だとしても、せめて私の周囲の私が信じた人達や私のことを信じてくれた人達がいる私の認知できる範囲の世界においては、人を信じきりたいのです。私を裏切った人に対しても、それが出来るようになったら、もっと良いのかもしれませんが、今はまだ無理です……。

広田先生の言葉

今回の一連の騒動で広田先生の話された言葉の意味はとても深いです。そして、これがどんなに困難で難しく厳しいことなのか、今ならとてもよく分かります。私はこの広田先生の言葉は『ウルトラマンA』(1972年TBS)の最終回でウルトラマンAが最後に残した言葉と同じぐらいの難しさを持っていると思っています。最後に広田先生の言葉とウルトラマンAの言葉を並べて引用します。

2人の言葉はとても素敵で素晴らしい言葉ですが、それを実践できるのかと問われると、とても難しいことだったんだと大人になっていく過程で身にしみて分かりました。この34話についても、まだ語り足りないところがあるので、また別の機会に語りたいと思います。

広田先生の言葉『痛快あばれはっちゃく』34話より

「いいか、人を信じるということが、難しいという場合もある。だからこそ、人を信じ切るということは、美しいことなんだ。まゆみに謝れ」

ウルトラマンA最後の言葉『ウルトラマンA』最終話より

「優しさを失わないでくれ、弱いものをいたわり、互いに助け合い、どこの国の人達とも、友達になろうとする気持ちを失わないでくれ、例え、その気持ちが何百回裏切られようとも、それが私の最後の願いだ」