柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

『男!あばれはっちゃく』26話「救え!聖徳太子」感想

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『男!あばれはっちゃく』26話より

1980年9月20日放送・脚本・安藤豊弘さん・松生秀二監督

太宰久雄さん再び

今回は初代『俺はあばれはっちゃく』14話に続いて、太宰久雄さんがメインゲストとして出演しました。2代目長太郎は『男!あばれはっちゃく』3話「ドジな兄貴さ」(脚本・山根優一郎さん、松生秀二監督)で医者も匙を投げだすほどの未熟児だと、信一郎が話していましたが、今回はその設定を受けた話で、太宰さんは赤ん坊の頃に肺炎になった長太郎を助けてくれた医師、オザキ ギンノスケ先生の役で登場してきます。

オザキ先生は、病院に入れる機械の金500万円を父ちゃんに借りに来ていて、その前に長太郎はオザキ先生と最悪な形で出会っているので、家にいるオザキ先生に食って掛かってきますが、父ちゃんと母ちゃんの話を聞いて怒りを鎮めています。それにしても、命の恩人であっても、長太郎達がドッジボールで遊んでいたボールを歩いていた道に飛んできたからと、明後日の方向に蹴って謝りもしなかったオザキ先生はどうかと思うのですけどね。家に来る前の長太郎達に取った態度と命の恩人の話は別だと思いますが。

今回は、それ以外にも、話としておかしなところ、腑に落ちない部分があって、釈然としない部分があります。それが、今回の脚本が安藤豊弘さんだっただけに、いったいどうしてしまったのだろうか?と首を捻るばかりです。安藤豊弘さんの脚本の話は、『あばれはっちゃく』の中でも、とても優れた話が多いので、今回の「?」が飛ぶ、変な話は珍しくて、びっくりしました。

話がワープしている錯覚

オザキ先生は父ちゃんから500万円を受け取り、長太郎が見送ってタクシーに乗って帰っていきます。長太郎が帰ってくると、母ちゃんが落ち込んでいて、オザキ先生に渡した500万円がないと、お店を手放さないといけないとのこと。この部分が見ていて、おかしいと感じました。タクシーに乗ったオザキ先生を長太郎が見送った後の場面の後に長太郎が家へ帰っていく場面に繋がっているのですが、長太郎の服装が同じであるために、その帰っていく場面がオザキ先生を見送った後に見えてしまったのですね。

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『男!あばれはっちゃく』26話より

よくよく見ると、長太郎がランドセルを持っているので、オザキ先生を見送ってから、少なくとも1日は経過している学校帰りだと分かるのですが、パッと見ではそれが分かりません。だから、お金をもらった直後にオザキ先生が再び桜間家に訪れて、貸した金を失くした報告をして不愛想に去っていったという勘違いを起こしてしまったのです。これが、今回の話にイマイチ入り込めない要因を作ってしまいました。

時間経過の流れがおかしいのです。いえ、オザキ先生を見送った時に持っていないランドセルを持って帰ってきているのだから、そのくらいは察してみてよと言っても、ちょっと乱暴すぎると思います。監督もお馴染みの松生監督で、これまでこんな不自然に感じた場面の繋ぎはなかったので、今回の話は映像面から見ても、変に感じますし、それが話が破綻していると勘違いした原因になっているので、一体全体どうしてしまったのか、と不思議でたまりませんでした。

良かったとこもあったのに

今回は長太郎がオザキ先生と一緒になって500万円を探すことになり、オザキ先生の癖から500万円を探し出す手がかりを掴むことになりますが、このオザキ先生の酒を飲んで酔っ払うと人に大事なものを預ける癖というのは、桜間家でビールを飲み、長太郎に500万円の入った鞄を預けているところで示されていて、さりげなく、オザキ先生の癖を自然に出して、500万円を探す時の参考にしているところは見事です。

こうしたさりげない伏線をちゃんと出しながら、時間経過の表現がおかしいために、この話は実に勿体ない話になってしまったと残念でなりません。また、最終的に500万円を預かってくれていた屋台のおじさんの感情の揺れ動きは見ていて、とても面白く感じました。

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『男!あばれはっちゃく』26話より

珍しい

今回は話づくりや映像でも、私の中で定評のある高いクオリティーで話を生み出す安藤豊弘さん、松生秀二監督でありながら、話の流れ、映像の流れに不自然さを感じてイマイチ話に入り込めなかった残念で珍しい回でした。この記事で書いた私が感じた不自然ささえ目をつむれば、面白い話だっただけに残念です。

残念に感じた以外で珍しいと感じたのは、父ちゃんが母ちゃんのことを回想シーンではありますが、「和子」と名前で呼んでいたことでしょうか。おそらくは、初代から通じて「和子」と父ちゃんが呼んだのは、この回が初めてな気がします。

恩人を疑いたくない気持ちと恩人が迷惑をかけたことを切り離して考えるという信一郎の考えは、一見厳しいようにも感じましたが、こうした切り分けは大切で必要でもあるんだなってことを感じた話でもありました。なんというか、人を信用すること、義理人情を天秤にかけるのは、いつも思いますが難しいものですね。

それにしても、1万円札が聖徳太子じゃなくなって、かなりの年数が経ち、今の福沢諭吉も、もうすぐ渋沢栄一に変わりますね。なんだか、段々と昭和が現代というよりは歴史の一部になっていくんだなって実感しています。ドラマを見ていれば、昔のお札は聖徳太子が1万円だった分かるけども、タイトルだけ見たら、今の子達にはどんな話か想像がつかないんだろうなって思ったりもしました。