柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

『男!あばれはっちゃく』74話「泣くぞ!先生」感想

『男!あばれはっちゃく』74話より

1981年9月5日放送・脚本・山根優一郎さん・磯見忠彦監督

耳が痛い話

今回の話は、今の私にとって、個人的に耳が痛い話でした。いろいろと偉そうに話の感想を通して、個人的に思ったことや考えを書き散らしている私ですが、こんな私なんかが作品にかこつけて偉そうな意見を書いていいのだろうか、と、改めて考えさせられた話でしたし、そう思ったところで次の日から生き方を変えられるのだろうか、できやしないなって思ったりもしました。

この話を見た子どもの頃ならば、まだしも、来年で50歳になる人間に出来るものか、と自身の可能性を否定して、様々な言い訳を並べて、何もしない変化のないまま、10年前と同じように10年後も、あの時行動していたらと悔やんでいるように思います。

さて、私の個人的な後悔はここまでにして、話の内容に触れつつ、この話の感想を書いていきます。所々で、また、後悔の念が入ってくると思いますが、ご了承ください。

寺山先生が辞める

今回の話は、寺山先生が学校を辞めるかもしれないという話から始まります。長太郎の担任の先生が学校を辞めるという話は、初代『俺はあばれはっちゃく』33話でもありました。(初代の場合は佐々木先生)初代では、佐々木先生が長太郎に対して甘いことを校長先生に指摘指導されて、佐々木先生が長太郎を否定する校長先生に反抗していました。

ここで、佐々木先生は生徒それぞれの個性を大事する考えを持っている先生であることがしっかりと出ていました。長太郎はそんな佐々木先生の考えに賛同して調子に乗って校長先生に対応するのですが、そこで佐々木先生は校長先生に嫌味を言われてしまいます。

確かに長太郎は校長先生が言うような悪い子ではありませんが、その時の調子に乗った長太郎の行動は佐々木先生の期待を裏切るものでした。長所と短所は裏表。時と場合によって、長所は短所にもなり、その逆も然り。せっかくの長所を短所として出してしまっては、とても勿体ないと思います。同じ人でも人によって、良いと思うところを悪いところとして見て嫌う人もいますから。

佐々木先生は母親の体が心配で学校を辞める気持ちでいたわけですが、寺山先生の場合は同じ実家のお兄さんから連絡があったものの、それを理由にして学校を辞めるつもりはありませんでした。寺山先生が学校を辞めようと考え出したのは、まり子ちゃんが家出をしてしまったことが大きな原因でした。

まり子ちゃんの家は八百屋の八百勝を経営している母子家庭。夏休みの宿題を半分しか出来なかったのは、八百勝の手伝いをさせられたため。まり子ちゃんは宿題を出来なかった理由を寺山先生に聞かれて答えます。

『男!あばれはっちゃく』74話より

「こんなに山ほど宿題出して、先生も酷い。そんなものに時間を取ることないよって、母ちゃんが言うもんだから」

寺山先生はまり子ちゃんの言葉にショックを受けます。まり子ちゃんの言葉は寺山先生の胸に刺さり、それはまり子ちゃんの家出によって寺山先生の中で大きな考えとなって成長していたようでした。寺山先生はPTAの要望に従って、各児童の家庭環境を考えずに一律に山ほど宿題を出してしまったことを酷く後悔したことを校長先生に話しています。ここで、寺山先生は自分には教育者の資格がないと辞任を口にします。

佐々木先生が児童それぞれの個性や家庭環境を大事にして指導、教育をしていたのに対して、寺山先生の場合は、児童それぞれを大事に思いながらも、異なる個性や家庭環境までに考えが及ばず、PTAの一般的な考えに倣って従っていたというのが分かって、佐々木先生とは微妙に違う教育方針というか、佐々木先生よりは自分の中で独自の教育信念が希薄だったのかなって思いました。

佐々木先生はその信念に対して校長先生から疑問を持たれ批判されましたが、寺山先生は佐々木先生のような信念を実は、まだ持っていなくて、今回のまり子ちゃんの事件で佐々木先生に近い考えというか、信念を持つことになったのかなって思いました。

初代『俺はあばれはっちゃく』の長太郎の担任の佐々木先生も2代目『男!あばれはっちゃく』の長太郎の担任の寺山先生も山内賢さんが演じていて、どちらもあばれはっちゃく、長太郎の理解者の担任の先生なので、その違いを殆ど感じたことはなく、それはその後の3代目の堀内先生、4代目の広田先生もそうなんですが、(5代目の山西先生は少し保留)各代の先生にも少しだけですが、差異があったんだなって、今回の話を見直して改めて思いました。

家出の理由と責任

まり子ちゃん自身は宿題がしたかったと言っていて、この後で家でもそれでまり子ちゃんはお母さんと言い合いになってしまいます。長太郎がまり子ちゃんを慰めても、いつも宿題を忘れる長太郎と一緒にして欲しくないと突っぱねたりして、まり子ちゃん自身が勉強をしたい、宿題をちゃんとやりたいという意思があるのに、家業の手伝いをさせる為に母親によってそれが妨害されていたことが分かると、まり子ちゃんの感情が蔑ろにされていて、とても可哀想でした。

勉強がしたいのに出来ないまり子ちゃん。母親が勉強を妨害するというのは、一種の虐待なんだなって思いました。だからと言って、お店を畳んでしまえば、それでは今後、どうやって生活するのっていう問題も出てきます。生活が出来なければ勉強も出来ない。だからと言って、宿題をしないで家業を手伝えというのは、極端すぎます。まり子ちゃんの母親に対する反発も尤もだと思います。

翌朝、まり子ちゃんはドンペイの散歩をしていた長太郎を待って相談します。それは長太郎がよく親子喧嘩をするから。まり子ちゃんは長太郎の話を聞いて、学校を欠席することを伝えて、お礼にハンカチに包んだキャンディーを渡して去っていきます。

ここで何気なく渡したハンカチに包んだキャンディーがこの後の展開で生きてきます。話の流れとしても、その後の話の繋がりから見ても、こうしたさりげない小道具が自然に違和感なく出てくるのは、いいなって思いました。

長太郎はその日の朝食の食卓で、まり子ちゃんの話を家族にします。誰にも話さないという約束でまり子ちゃんの話を聞いた後なので、これには少し驚いたのですが、こうしてオープンに家族に何でも話す事が出来るのは、風通しが良くていいなって思いました。

この時に母ちゃんがまり子ちゃんの様子を心配し、父ちゃんが家出の相談をしたかもと長太郎を少し脅かします。この時点では、まり子ちゃんは相談だけで、まだ家出をしてない段階。なので父ちゃんも笑い飛ばし、長太郎も安心しますが、そこに少し不安を煽る信一郎の言葉。信一郎の現実的な考えが的中し、長太郎の中に不安が少し残ったようでした。

ここで長太郎に少しの不安を残しておく事で、まり子ちゃんが家出をした事を長太郎が知った時に、自分で責任を取ると決意させ、まり子ちゃんからわたされたキャンディーを包んだハンカチは、まり子ちゃんを探す時に役に立ちます。

話の中に、さりげなく少しずつ、後の話や解決に繋がる小道具、心の中に芽吹いた不安や疑念、心配事、自身の行動から他人(今回はまり子ちゃん)に与えた影響に対する反省などが、話の後半への長太郎や寺山先生の行動に繋がっていて、どんな些細な事でも話の出来事に関係してくるのだなって思いました。

長太郎は自分の話を聞いてまり子ちゃんが家出をしたのじゃないかと心配し、寺山先生に相談し、寺山先生はまり子ちゃんを探しに行きます。最初にまり子ちゃんの家に行き、そこでまり子ちゃんの置手紙を手にして、慌てているまり子ちゃんの母親と一緒にまり子ちゃんを探しますが、その途中でまり子ちゃんの母親は交通事故にあってしまいます。

寺山先生は、自分がまり子ちゃんの家庭環境を考えずに山ほど宿題を出した事がまり子ちゃんの家出の原因だと考え、まり子ちゃんの家出とまり子ちゃんの母親の交通事故の責任を取って教師を辞めることを校長先生に話します。それを見た長太郎が自分がまり子ちゃんを探してくるから、先生を辞めないでくれと約束して、まり子ちゃんを探しにいきます。

最初、長太郎はまり子ちゃんの家出は新宿までだろうと考えて、新宿を探しますが、タッチの差ですれ違ってしまいます。長太郎の予測は当たっていて、ほんの僅かな差ですれ違っていたので、ああって思いました。そこで、2回目に先に書いたように、ドンペイにまり子ちゃんのハンカチの匂いを嗅がせて探させるのです。ドンペイは見事にまり子ちゃんを見つけ出します。

何度も裏切られて

まり子ちゃんを見つけ出した長太郎はまり子ちゃんの母親が入院している病院に連れていきます。まり子ちゃんとまり子ちゃんの母親は互いに謝って和解します。一方で長太郎は寺山先生との約束を守り、先生に学校を辞めないことを改めて頼みます。まり子ちゃんからもお願いされる寺山先生。この時に長太郎が寺山先生が自分達の為に宿題をたくさん出すなら、石にかじりついてもやってみせると言い、まり子ちゃんもそれに続きます。

『男!あばれはっちゃく』74話より

「先生、俺たち、これからちゃんと宿題やるからさ。先生もどしどし出してくれよ。俺、あんまり、頭、良くないけどさ、先生が、本当に俺たちの為だと思って出してくれるなら、いいよ。俺、石にかじりついても、やってみせるよ」

「私だってやるわ」

寺山先生は2人の言葉に涙を抑えて答えます。

『男!あばれはっちゃく』74話より

「しかし、長太郎には、随分、裏切られているからな」

私は、この後の寺山先生の言葉にどうしようもなく、居たたまれない気持ちになってしまいました。それは、話とは関係のない所で、現在までの私自身の生き方自体が、寺山先生を裏切りってしまう生き方になっていたのではないか、と思ったからです。

15歳を境にあらゆることから無気力になり、集中力が続かなくなり、物事を覚える力が弱くなっていき、感情とやる気が嚙み合わなくなっていき、頑張る力が減っていった私は、なんとか高校を卒業し、短大へ行って、就職して働いたものの、いじめや16歳から現在も治療中の病気によって、やがて社会や対人への恐怖から、段々と様々な面倒から逃げる生き方をしていくようになっていったからです。

なんというか、頑張って生きるという生き方を約束しながら出来なかった私は、寺山先生を裏切って泣かせてしまったような気持ちになっていました。別に私が約束をした訳ではないのに、『あばれはっちゃく』を好きな自分が、今現在、こんな憶病な生き方をしていること自体が「裏切り」のように思えて、とても悲しく申し訳ない気持ちになったのです。

いろいろと考える

この話は、今になって、いろいろと考えさせられる話でした。佐々木先生と寺山先生の違い。寺山先生を引き留めた校長先生の考えは、寺山先生が学校を辞めると決意する前までは、校長先生と寺山先生の教育方針が近い所にあったことなんだなとか。まり子ちゃんの為に八百屋を辞めるという母親の考えは一見良いように思うけれども、やめればいいという問題でもない。勉強をしたいというのが、まり子ちゃんの我儘だとまり子ちゃんが反省するのもおかしい話。

八百屋の手伝いをして欲しいというのは、まり子ちゃんの母親の我儘。勉強をしたいというのはまり子ちゃんの我儘。お互いの我儘を押し付けあうのではなく、互いに相手の事を思い、相手を優先しながら、自分のしたいこと、して欲しいことを相手に伝えることが大事なのではないかなって、病室で互いを思って言葉を掛け合って和解する姿を見て思いました。

また、この話が放送された当時はなかった言葉ですが、家の事をするために子どもの時間が犠牲になるのは、少し違いがありますが、現在で言うところのヤングケアラーに近いものを感じました。

この話も現在に通じる話ですし、また、当時、見ていた子どもだった視聴者が大人になって見返してみて、それまでの自身の生き方をどのように思うかという、過去からの手紙のようにも感じられる深い話だと思います。