柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

誰が何を好きか

昔の話

私は松田聖子さんが苦手です。それは、小学生時代に私をいじめていた女の子Kが松田聖子さんの大ファンだったからです。松田聖子さんを見るとKにいじめられていたことを思い出して辛いのです。松田聖子さん自身には何の問題もなく、とんだとばっちりの被害なので、本当に松田聖子さんには申し訳ないなって、今でも思ってしまいます。

一方で、小学生時代の親友が大好きだった中森明菜さんに関しては好印象を持っています。彼女は親切で優しい子だったので、そういう優しい子が好きな中森明菜さんもいい人なんだろうなって思ったからです。

松田聖子さんも中森明菜さんも私が小学生時代の時にはトップアイドルで、絶大な人気がありました。私は人気があるなと思いつつも、特に2人に思いれがなかったのですが、小学生時代に関わった2人の同級生の影響で、直接に松田聖子さん、中森明菜さんに関係がないところで、2人のアイドル歌手に対する心証が変わりました。

私は自分自身の経験から、どんな人がファンにいるかどうかで、その人の価値が評価されるというのもあるんだなって、そんなことを知りました。

多分、それは私に対してもあって、私が好きな芸能人や作品、作家に関しても、あんな柿の葉が好きで支持しているのだから「嫌い!」という人達もいる(いた)んだろうなってそんなふうに思います。

好きを発信していくことの責任

だから、好きなことを発信していくことは、それなりの責任が伴うと私は考えます。好きなものが存在していて、嫌いな人間が同じものを好きだった時に、人は好きな物は責めずに嫌いな人間を責めたて、その人格を否定するんだということを私はネット時代、SNSやブログなどのコメント欄で学びました。

好きなものを否定はしたくないから、嫌いな人の方を攻撃するというのは、本当に現在では特にTwitterなどのSNSで目立ちます。後は、最初は同じ好きなものを好きなもの同士で和気あいあいだったのが、ちょっとした行き違いから、相手を否定する関係になるのも目にしてきましたし、自分の方が詳しいんだと優越感に浸りたいのに、相手が自分よりも知識があると知ると攻撃していく人も目にしました。

そんなSNSの醜いやり取りを見て、嫌な気持ちになる一方で、どちらかに肩入れして楽しんでいる自分自身に気が付き、私は嫌だと思っている人と同じ感情を持つ人間だったのか、だとすれば、私もこういう醜態を晒してしまうかもしれない。いや、無意識に晒していて、人を傷つけているかもしれない。

「傷つきました」と伝えて去っていく人がいないから気づかないだけで、私は知らぬ間に見捨てられている可能性だってあるんだろうなって思いました。だいたいが、私自身が人から好かれることなく、評価されない人間なのですから、私の書く文章が好きでこのブログに来てくれる人がいるんだと思う方がお門違いの自惚れなんだって思った方が身の丈に合っているとそんなことを考えたりもします。

とても卑屈で、このブログを支持されている方に対して、とても失礼な感情です。私は時々、こうした卑屈な気持ちに支配されては、そんなことはない。コメントをくれて評価してくれる人達が存在するのだから、自信を持て!と自分を励ましています。どうにも、等身大の自分をちゃんと見ることが今も出来ないので、本当にしょうがないなと困っています。

好きなものを発信していくのは楽しいのですが、自分自身の振る舞い一つで好きなものを嫌いになる人を増やす可能性もある。または、同じ好きなものを好む人を否定し排除するモンスターに自分自身がなってしまう可能性もあるということを肝に銘じていかないと、とんでもないことになってしまう。好きなものを公にするのは、それだけの責任が伴うことだと私は思います。

自分の好きな作品を守るために

自分の好きな作品を守るために自分自身の襟を正すことの大切さ。無礼な人に対して怒りを持ってしまって、それを抑えていても怒りを相手にぶつけてしまう自身の醜さを思い知る時、こうして好きな作品についての気持ちを書いていくのは、実は気軽に出来るものではないんだなって思います。

私自身はかなり自分と異なる人の感情に気を付けて文章を書いているつもりですが、それが本当に出来ているのかどうか分かりません。なぜなら、私自身が私の文章を受け止める当事者の赤の他人に完全になることは出来ないから。その人が私の文章に対してどんな感情を抱いたかを知る術がコメント欄しかなく、過去に一人の捨て台詞を書いた人以外は私の感想に反論する人がいなかったから。

ショックを受けて無言のまま立ち去った人もいたんじゃないかなって。ブログに好きなことについて書き始めた頃は、そんなことを考えずに書いていたんですけれども、次第に自分の好きを発信していくことの怖さ、いがみ合うSNSのファン同士の闘争を目にしていくうちに、ファンの姿が作品の評価にも繋がっていくんだと思うようになってからは、好きを発信するのにも細心の注意と思いやりが必要なんだと思うようになりました。

好きなものを嫌いになっていく

いくらファンが酷くても、一度好きになったものを嫌いになることはない。好きな作品よりもその作品を好きな嫌いなファンの方を嫌いになっていくものだと、私は思っていました。

でも、違いました。私は最近、目に余るあるファンの人の心を踏みつける行為をTwitterで見かけて、それが一人ではなく、同じ作品を好きな同士数人で行っていたのを目にして、私はこのグループの人達が好む作品に拒否反応を持つようになりました。

幼稚園の頃から好きで、コミックスも集め、その作品の登場人物のフィギュアも集め、設定資料集等も買った作品でしたが、私は、もうその作品を見たいとも思わなくなりました。小学生時代に私をいじめていたKが好きだった松田聖子さんが苦手になったように、私は好きだった作品がダメになってしまったのです。

長い間好きだった作品が数人の起こした数日間の行為で、(それも直接に私に対しての攻撃ではないものに対して)こんなに拒否反応が出てしまうのか、と自分自身の感情なのにとても驚きました。

これは、他山の石として見ないと私自身も、私がこのブログで好きだと書いてきた『あばれはっちゃく』を嫌いという人を増やすことになり兼ねないと思いました。もしかしたら、もう手遅れだったりするかもしれないけれど、それでも、好きなものを公に発信してくのには、いろいろな心配りが必要なんだと、そんなことを思います。