柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

意見の相違による諍い

人を傷つける言葉

Twitterを見ていると、ある日突然仲の良かった相互フォロワー同士の争いを目にすることがあります。

私が一方的に片想いしているフォロワーさんが相互フォロワーさんと微妙な考えの違いからすれ違いをしているのがTLに流れてくるのです。

親愛していた相手から一方的に裏切られたと感じた相手は、自分を裏切った相手を言葉の刃で攻撃をします。

それは関係のない私の目から見ても、心に突き刺さる攻撃的な言葉で、それで相手を完膚なきまで叩き潰して殺すだけの力があり、そこまでして相手にダメージを負わせたいのかと思うほどです。

それまでがとても仲が良く、尊敬し信頼していたやり取りが見えるだけに、関係のない私までダメージを受けます。

攻撃する相手は、自分を裏切った相手を叩きのめす言葉やその行動は正しく正義なのでしょうが、私には相手が自分の理想通りに振舞わなかったことに対する腹いせにしか見えず、それが正しく素晴らしい人間がやる行為だと思えません。

最初から相手を憎んでいたのではなく、相互に信頼関係を築きながら、1つの見解や考えの違いなどで、相手をというよりは、第三者が見ても死にたくなるような攻撃的な言葉を腹いせに書き連ねるのは、恨みの深さと相手を本気で亡き者にしようとする殺意を感じるだけに怖く、それを受けとめなければいけない対象者がとても気の毒に感じます。

受けとめた相手が攻撃した相手に対して、攻撃で返すのも見かけますが、そうではなく相手の怒りと攻撃を真摯に受け止め、意見の相違を悲しんでいる人もいて、一方的に攻撃を受けている人を見ると、とても切なく悲しくなります。

全てにおいて同じ考えや思いの人と言うのはいないと思います。

共感する部分、反発する部分などがあり、それでもその違いを認め合って、それぞれの考えの中から反発したり、共感出来なかった考えから学んで自分の考えや物の見方の新たな切り口を見つけ出して、見聞を広めることが出来るのではないかと思いますが、それは理想であり、なかなか実現出来ないことなんだなって、Twitterでの諍いや自分自身の体験を通して思います。

ただ、相手に対して怒りをぶつけて、自分の正義を行使している間は気持ちが良くて楽しいと思いますが、怒りをぶつけている相手にも、裏切られて悲しく怒りを感じる心を持っている人と同じように、傷つき悲しむ心がある人間であることを忘れているように感じます。

相手に怒りをぶつけるだけ相手を傷つけ、痛めつけていることに気づけば、暴言なんて出ないのではないかと思うのです。

怒りを持つことも不満を持つことも当たり前の権利で感情のある人間ならば当然の心理だと思いますが、それを相手が死ぬまで、自分に負けを認めるまで、他の人の目に触れるところでやるのが正しいのでしょうか。

他の人の目に触れるところでやるのは、自分の正しさを肯定してもらいたいという我儘ではないかと私は思います。

私も細々と15年程、このブログを書いてきて心ないコメントを頂いた事があり、その時は怒りのあまり相手を晒したり、怒りの感情を書いてしまったので大きなことは言えませんが、不愉快な思いをしたからと、わざわざ相手の心を殺すようなコメントを書くのは大人げなく、そんな攻撃をしたからには、同じように攻撃が返ってくる覚悟をするべきです。

その覚悟がなければ書くことなく立ち去るのがいいと思います。

もっとも私のブログに私を馬鹿にして攻撃した人は私がその言葉を受けとめた言葉や怒りの言葉を読むことなく、暴言を書き込んで立ち去ったようですが、そういう通りすがりの暴力を気軽にする人がネット時代になって増えたように思いますし、相互交流がより簡易になったTwitterが主流になった今では、怒りの攻撃が応酬になってより泥沼化してきたように思います。

双方が気持ち良くSNSを通して交流が出来る反面、敵同士になって互いに心を傷つけあう時代になってしまったのは、とても悲しく残念でより人と人を繋ぐツールが人が人を傷つけるツールになっていくことに、便利な道具も人間は悪い結果が出る物にしてしまうという残念さを感じてしまいます。