柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

『男!あばれはっちゃく』46話「滑れ!白い風」感想

『男!あばれはっちゃく』46話「滑れ!白い風」より

1981年2月14日放送・脚本・市川靖さん・松生秀二監督

メタ要素

前回に引き続き、石打後楽園スキー場での話。今回は、寺山先生がスキーを避けていた理由とミムラ親子が10年前に存在した「石打の白い風」と異名をとるスキーヤーの存在が分かります。

ヨウイチロウが長太郎に石打の白い風のことをはなし、ヨウイチロウの父親のミウラさんも寺山先生に石打の白い風のことを話していて、その石打の白い風が寺山先生に似てると話すと、寺山先生は強くそれを否定します。

この寺山先生とミウラさんの場面では、ミウラさんが前回のヨウイチロウにスキーの楽しさを教えずに辛い特訓ばかりをさせていたことを反省し、寺山先生とそれについて話、続いてミウラさんが寺山先生とどこかでお会いしたことがあるという流れで、寺山先生が10年前に学生で選手権で活躍した物凄いスキープレーヤーだった選手で、石打の白い風と呼ばれた人に似てると話します。

ここで、寺山先生の態度や、前回、学生時代にスキー部で活躍していたと長太郎達に自慢していた寺山先生の話と結びついて、寺山先生がそのミウラ親子の言う「石打の白い風」と呼ばれていた学生スキーヤーだったのかな?という推測が生まれます。

この、寺山先生とミウラさんが会話をする場面、話の流れとして、寺山先生がかつて「石打の白い風」と異名をとるほどのスキーヤーでありながら、現在はそれを否定していることで、寺山先生がスキーを避けている理由が、10年前の学生時代にあるのではないかという流れになっています。

けれど、この場面を話の外に出て見てみると、寺山先生を演じた山内賢さんとミウラさんを演じた久保明さんは実の兄弟なので(山内さんが弟、久保さんがお兄さん)ミウラさんの寺山先生にいう「どこかでお会いしませんでしたっけ?」という言葉やそれに対して答えた「もしかすると、どこかでお会いしたかもしれませんね」という会話のやり取りに、この2人は本当の兄弟だからなあという気持ちが出てきて、そこにメタ的な面白さを感じ取ってしまいます。

また、面白いなと思うのは、この場面で寺山先生が頬を撫でる仕草をしているのですが、同じ仕草をミウラさんもしていることですね。この同じ仕草をいれることで、さらにメタ的な要素を強くしている印象を受けました。実際の山内さんと久保さんの癖とは思いませんが、寺山先生とミウラさんに同じ仕草をさせることで、山内さんと久保さんが兄弟であることを強く印象付けているんだなって感じましたね。

『男!あばれはっちゃく』46話より
『男!あばれはっちゃく』46話より

ツッコミどころ満載

さて、この後父ちゃんと母ちゃんもきて長太郎達と合流します。父ちゃん達は長太郎達のスキーの面倒も見てくれた寺山先生に挨拶をしようとしますが、長太郎達は寺山先生がスキーがてんでダメなことを話し、自分達にスキーを教えてくれたヨウイチロウのこととミウラさんのことを父ちゃん達に教えます。

長太郎は母ちゃんにミウラさんにスキーを教えてもらったらいいと、母ちゃんが借りるスキーを取りに行った時に、スキー板を見つめる寺山先生を見つけ、そこで寺山先生がスキーをしない理由を知ることになります。この場面、いろいろとツッコミどころの多い場面なんですが、あまり気にしないで見ちゃうことが出来るのがすごいなって思います。

スキーをしないのにどうして寺山先生はスキー板を持ってきていたのかとか、なんで寺山先生が学生時代に優勝した時の写真パネルが長太郎たちが宿泊しているホテルにあるのかとか。

『男!あばれはっちゃく』46話より

私がツッコミどころ満載の場面を、違和感なく見ることが出来たのは、自分の脳内で勝手に辻褄が合うように話を補完していたからなのですね。今回、長太郎達が来ているスキー場は、寺山先生が10年前に「石打の白い風」と呼ばれ活躍していた場所と同じ場所。だから、10年前にスキーをしないと決めた寺山先生はそこにスキー板を置いていった、また、当時優勝した学生選手の写真を地元のホテルが保管していて飾っていたのを、寺山先生が長太郎達が気付く前に、ホテルの人に言って取り下げてもらっていたとか。

しかし、寺山先生が10年前に使っていたホテルと同じホテルで10年間客のスキー板を補完できるのかとか、写真パネルは展示されている可能性があっとしても、長太郎やミウラ親子が気付く前に撤去出来るのかとか考えると、無理かなあって、こうして話を思い出して書いてみると思ったりもして、やっぱり、いろいろとツッコミどころの多い場面だなって思ったりもします。でも、見ている間は子どもの頃も、今も気にはならなかったんですよね、不思議なことに。

封印の理由

長太郎は寺山先生から、誰にも言わないと男の約束をして、スキーをしなくなった理由を聞きます。それは、選手権で寺山先生が優勝したことでスキー部が有名になり、スキー部キャプテンだった寺山先生が後輩達を厳しくハードな特訓をさせたことで、後輩たちの何人かの学生生活を棒に振ったこと、それに対して申し訳なく思った寺山先生はスキーを封印したという話。

ここで、寺山先生が前回、ヨウイチロウをしごいていたミウラさんを見て複雑な表情をしていた理由も分かり、また、寺山先生がこの話でミウラさんとヨウイチロウの特訓のことで話をしていた時に、指導のありかたについて寺山先生の考えをミウラさんに語っていたことが、寺山先生が過去にスキー部の後輩たちにしていて、自分自身に対する自戒も込められていたことも分かって、それを分かった上でもう一度、前回の話や今回のミウラさんとの会話を見返すと、より一層、寺山先生の言動に深みを感じます。

強く優勝出来るために学生生活を棒に振る特訓、好きなものを嫌いにさせるような苦しいだけの特訓にどんな意味があるのか。人を育てるというのは、ただ厳しいだけでいいのか。楽しみがある特訓は悪なのかとか、いろいろと考えさせられる話です。私事ですが、私は中学生の時に清掃を一生懸命にやることが楽しいと感じたことがあって、それを担任に話したら、清掃を楽しいと感じてはいけない、と怒れたことがあったんですね。

清掃をして綺麗になっていく、効率よく綺麗にしていくのが楽しくて、決して清掃をサボって遊んでいて楽しいのではなくて、夢中に清掃をして綺麗になっていく段階が楽しくて言ったのですが、担任に怒られて悲しくなったのを覚えています。清掃とか基礎訓練の特訓って楽しくない、辛いものであって、そこに楽しさを見出すのはいけないことだという考えって、なんて詰まらなくて辛いことなんだろうって、私は思ってしまいます。

前回のミウラ親子の特訓も、寺山先生が後輩たちにさせたハードで厳しい特訓にも楽しさがなくて、辛さだけを増幅させるもので、人の心を疲労させるものだった、心だけでなく特訓で肉体的にも疲労が溜まり、人は疲れ果てて去って行ってしまう。緩く楽しいだけではダメだけど、厳しい一辺倒だけでもダメ。

人の心と体は疲れるものであることを承知していないと、人を指導し、育てることは出来ないんだな、なんてことを今回の話から感じました。また、出来る人ほど、自分と他者の能力の差を理解できずに、出来ない人間が手抜きをしていると思いがちで、できないことを責めます。

しかし、世の中には必死に本気になってやってみても、出来ない人はいて、指導する人の思う通りに動かないと、罵声を浴びせたり、酷い人は殴る人もいるんですが、人は誰でも思い通りに動かすことが出来ないということが分からない人は、恐怖で人を支配する考えに至るのかもしれないなって思いました。これは、小学生時代に全力で走ったのに、「本気で走っているの」って言われた、私自身の過去の体験談から感じたことです。

話を『男!あばれはっちゃく』46話に戻して、寺山先生がスキーを封印していた理由が分かり、また、寺山先生の過去の経験から、現在の寺山先生の小学校教諭として、人を指導、教育する姿勢の在り方が見えた気がしました。寺山先生は過去の失敗から、人を導くやり方を現在のものにしていったのではないかということ。これまでの「あばれはっちゃく」と呼ばれる長太郎に対する寺山先生の向き合い方には、後悔している寺山先生の後輩たちの指導にあったんじゃないかなって、思うんですよね。

『男!あばれはっちゃく』46話より

作品に込められたメッセージの解釈

子どもの頃にこの話を初めて見た時は、前回の話やミウラさんとの会話を思い出して、その深みを噛みしめるしか方法がないわけですが、ぶっちゃけ、思い出してみるということはせずに、ああ、そうなんだって通り過ぎるだけなんですよね、私の場合は。こうして、大人になって、DVDで話を見返すことが出来て、前回の話もすぐに見返すことが出来るからこそ、深みを噛みしめることが出来た次第で……。

それでも、一回の放送でも、視聴者の記憶に委ねる部分、どこかに寺山先生の態度が気になって見ていた視聴者がここで、寺山先生が過去の話をした時に、そうだったのか!と合点がいくように話を紡ぎだして見せてくれる制作者の思いを感じると、思いを人に届ける人達が掛けた気持ちの大きさを感じ取ってしまいます。

作り手がどんな思いを込めて、作品を作りだし、生み出しているのか。それを私はどれだけ受けとめることが出来ているのかとか、いろいろと考えてしまいますね。それに、その受けとめた解釈がどれだけ、作り手と齟齬がないのかとか。

私は漫画や小説や映画とかも好きなんですが、作品を読んだり、見た後で作者の自伝や作品に込められたメッセージについて読んだ時に、当たっていることもあれば、的外れな時もあって、作品のメッセージの受け取りが100%出来てない人なので、『あばれはっちゃく』シリーズに対しても、私はこう受け取ったけれども、これは私の受け取り方の一つであって、本当のところはどうなんだろうってことは、常に考えてしまいますね。

寺山先生の活躍

寺山先生の秘密が分かったところで、ヨウイチロウが盲腸で倒れ、医者を呼ぶのに険しい雪山を降りていかなければいけない事態になります。長太郎は寺山先生に頼むのですが、10年間スキーを封印していた寺山先生は最初は断るものの、苦しんでいるヨウイチロウを見て、封印を解きます。

寺山先生に聞いた話を誰にも言わないと約束した長太郎と、封印の理由を知っても誰にも言わなければ分からないとヨウイチロウの為にスキーで雪山を降りて医者を呼んできて欲しいと頼む長太郎と、それでも頑なに断っていた寺山先生が、危険だと言われる雪山をミウラさんと降りていこうと決意した長太郎と苦しむヨウイチロウを見て、寺山先生が10年間の誓いを破る決意をしていく過程は、見ていて胸に迫るものがありました。

『男!あばれはっちゃく』46話より

ここに至る過程までにも、唯一の医者が学会でいなかったり、長太郎の閃きでホテルの中に医者がいないか探したりしていて、それでも山を下りたところに唯一、電話も引いていない医者がいて、その医者を呼ぶために険しい雪山を降りて呼びにいかないといけない。こうした状況は、石打の白い風」と呼ばれていた寺山先生が活躍するためのお膳立ての状況作りなんですが、そんなことは気にならずに、ああ、早く医者の手配が出来ればいいのにと祈りながら見てしまいました。

今回は、いろいろと突っ込むところがありながらも、見ている間はそれがあまり気にならなくて、話の中に入り込めることが多かったですね。寺山先生が決意をしてくれて、雪山を降りてきて、医者を背負ってきてくれた時は、待っているみゆきちゃん達が心配して10年間スキーをしてこなかったから、心配だと口にしたこともあって、安心感とヒヤヒヤ感を感じていただけに、戻ってきた姿を見た時は、本当に嬉しかった。こうした、不安な気持ちを持たせた後での安心感というのは、見ていてとても心地の良い物でした。

『男!あばれはっちゃく』46話より
『男!あばれはっちゃく』46話より

他者を大切にすること

寺山先生は自分の信念を曲げて、ヨウイチロウの為にスキーしない封印を解いて、その腕前で医者を連れてきて、ヨウイチロウを救いました。寺山先生は医者を呼びに行くときに長太郎の「男の約束」の問いかけに、「男の約束も人の命に代えられないんだ」と答えています。

自分の信念とか約束も大事だけど、人の命はもっと大事だということ。人は死んでしまえばその人の代わりはどこにもいない。同じように人の人生も一度きりのだた一つのもの。それをある特定の人のエゴや見栄の為だけに台無しにしてはいけない、ということをこの話からは強く感じました。

自分の信念を曲げても助けなければいけない人の命。自分のエゴで人の人生を棒に振るような真似をしてはいけないということ、それだけ人の命や人生は大切にし尊重しなければならないものであり、他者の命や人生を軽んじるものは、自分自身の命や人生も他者によってダメにされる可能性があるということも感じました。

自分の命でも人生でもない、他者の命や人生なのだから、どうなろうと関係ないとう考えの人ばかりになってしまえば、助けてくれる人も助けられる人もいなくなり、自分自身も命や人生をダメにされる可能性の多い世界で生きるということ。それは、あまりにも辛く、苦しい世界になってしまうのだなあって思いました。

他者を大切な存在としていくのは、自分自身が他者に大切にされることに繋がっていくのだろうと思います。

長太郎は寺山先生が医者を呼びに行っている間に、白い風時代の寺山先生の写真パネルをヨウイチロウに見せて励ましていて、ヨウイチロウにとっては、目標とする憧れの白い風に命を助けられたことは、いつまでも励みになっていったと思いました。

『男!あばれはっちゃく』46話より
『男!あばれはっちゃく』46話より