ドラマ『あばれはっちゃく』の生みの親
私が11月6日に書いた下記の記事について、日本映画監督協会のHP、酒井一圭さんのTwitterで広く情報が公になりましたので、11月6日に書かけなかったことを書きます。
鍛冶昇さんは『あばれはっちゃく』のプロデューサーです。元々は日活の映画監督でした。1931年8月16日生まれ。慶応義塾大学仏文科を1954年に卒業して日活撮影所に入社。ちなみに山際永三監督の大学の1年先輩(学部も同じ)になります。
鍛冶昇さんは、主に滝沢英輔監督、市川崑監督、斎藤武市監督の下、助監督を務め、1966年の映画『おゆきさん』で映画監督デビューされます。その前年1965年にテレビドラマ『山のかなたに』で監督デビューしています。1969年日活を退社後、フリー監督になり『帰ってきたウルトラマン』などの監督をされた後で国際放映のプロデューサーとなります。
その国際放映のプロデューサー作品の一つとして、鍛冶昇さんが手掛けたのが『俺はあばれはっちゃく』でした。過去記事にも書きましたが、あばれはっちゃくの長太郎役はプロデューサーが長太郎を吉田友紀さんに決めてオファしました。
このプロデューサーがテレビ朝日の落合さんか鍛冶さんか山際監督にお聞きしても、はっきり分からなかったのですが、私は様々な状況証拠から鍛冶さんが決めたのではないかと思っています。あるいは、落合さんと2人で決めたかもしれません。
鍛冶昇さんは『あばれはっちゃく』の後にも吉田友紀さんを自身のプロデュースドラマに起用されました。工藤夕貴さん主演のドラマ『ジャンプアップ!青春』(1986年日本テレビ)がありましたが、これは鍛冶昇さんがプロデューサーで吉田友紀さんが出演しています。また、このドラマには脚本家として、『あばれはっちゃく』シリーズでお馴染みの市川靖さんも参加されていました。
市川靖さんは、鍛冶昇さんが連れてきた若い脚本家であったことを7年前に山際監督にお会いしてお話を伺った時にお聞きしました。
また、鍛冶昇さんは日活監督時代に『二人の銀座』(1967年)を撮って、長く日本の映画、ドラマ界に影響を与えたのですが、この『二人の銀座』の主演が長太郎の担任の先生を演じ続けた山内賢さんでした。
もしも、鍛冶昇さんがいなければ、山中恒先生の『あばれはっちゃく』がドラマ化されることはなく、吉田友紀さんが長太郎になることもなく、山内賢さんが長太郎の先生になることもなく、市川靖さんが脚本家として『あばれはっちゃく』のドラマを生み出すことはなかったでしょう。
ドラマあばれはっちゃくは全て鍛冶昇さんから始まっていると言っても過言ではないと思います。その鍛冶昇さんが亡くなられたことは、本当に本当に残念で悲しくて堪りません。一度でいいからお会いしてお話をお聞きしたかったです。
ここに謹んで心からのお悔やみを申し上げます。
鍛冶昇、享年90歳。