柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

鴨志田親子

初代はっちゃく『俺はあばれはっちゃく』の主演といえば吉田友紀さん。これは最早『はっちゃく』ファンならば誰もが知っている事。とはいえ、私自身も過去の日記に書いてあるように子どもの頃はクレジットの漢字が読めず役者名よりも役名で覚えていて、更にあやふやな記憶 - 柿の葉日記にも書いてますが、私自身が親の仕事の都合で引越しが多く、幼い時の記憶もあって、いつの代の放送の時に何処にいたのかというのを明確に示す事が出来ないというのがあります。ただ、親がいうには「いつも『はっちゃく』を見ていた」という言葉があり、初代が始まった頃には私は横浜に住んでいましたので、初代の放送をキー局と同じ時間帯に見ていたという可能性はあります。また、上記の過去記事と関連して同じく過去記事でひとりうた - 柿の葉日記この記事に『子供の頃、「はっちゃくひとりうた」を福島から長野や東京に住む祖父母の家に行く途中で聞いて、「はっちゃく」なのに悲しい歌だなと思っていた事があります。この頃は小学校に上がる前で、この頃にも私は初代か2代目を見ていたんだろうなと思います。この辺り記憶が曖昧です。(「あばれはっちゃく」は長野で見ていた記憶が強いのですが、長野に来る前にも見ていたのかなと。』とも書きました。

正確な所は正直申し上げてはっきりとしないのですが、私が子どもの頃に記憶する4人の長太郎達の中で(5代目はその存在を『ガオレンジャー』で酒井さんを知って初めて知ったので除外させて頂いて、酒井一圭さんに関してもかなりご本人から情報を頂いていたり、ツイッターでリプを下さり、私のブログに書き込みまでして下さっていて、また酒井さんご自身は憶えていないと思いますが私が唯一お会い握手をしその時に一言、二言だけですが会話(あれを会話としていいのかどうか…)をさせて頂いた唯一の長太郎役の方なのです。酒井さんの書き込み、酒井さんと握手をしてサインをもらった事については探してます - 柿の葉日記過去記事を見て頂いて、このブログの中でも酒井さんについても、書いていきたと思います。といいますか、もう4代目まで出るのなら、各代の長太郎役の俳優について追っていきたいとも思いつつ、私の基本が初代の吉田さんにあるのであまり深く掘り下げる事が出来ないかもしれませんが、栗又さんに浮草さんがいるように、以前に純烈を応援している理由 - 柿の葉日記(酒井さんの書き込みのある記事)何気なく - 柿の葉日記(酒井さんとお会いした時の事を書いた記事)書き込みをして下さったいち酒井ファンさんがいるように、各代の長太郎役のファンの方々がいらっしゃって思い入れが深いので、勿論、私以上に吉田友紀さんを長年愛し続けている方もいます。それでも折に触れシリーズを継続しつづけてきた、吉田さんの弟分達についても、私が調べる事が出来る範囲で追いかけて行きたいのです。

記憶に中で一番に思い出すのが追いかけっこ - 柿の葉日記にも書いてある通り『私の記憶の中の長太郎は細っこくて常に走り回っているイメージが強くあって、これは初代の2番目のオープニング映像の影響も強いのだと思いますが、とろろいもさんの所の追いかけっこの特集で改めて見てみると、本編でも長太郎が走り回っていたのもあったのだろうなと思います。』とあるように私の中では吉田友紀さんこそが長太郎であり、例え原作に書かれた容姿や体型と違っていても、山中先生の原作の長太郎をドラマで、当時活躍していた子役でマイナスからのスタートで、始まる未知数の作品で主役を任せられるのは、吉田さんしか該当しないと私は、1978年当時『俺はあばれはっちゃく』が企画されクランクインされた同年12月の現状で、そう考えているのです。その考えについては過去記事に書きましたので長太郎は夏と共に - 柿の葉日記てるほ姉ちゃんの配役について - 柿の葉日記を読んで頂くと嬉しく思います。

私は、吉田友紀さんを子役としては、遅咲きの秀才タイプの子役だと認識しています。それは私が吉田友紀さんを長太郎役から遡ってその役者としての足跡を辿り、見る事が出来た作品と吉田さんと同世代、もしくは数年上の世代の子役の人達の活躍を映像に残る演技を見る事で僭越ながら比較して見てきて、また5歳の頃の吉田さん、7歳の頃の吉田さん、8歳の頃の吉田さん、9歳の頃の吉田さんと吉田さん自身の成長をドラマの演技の中で見てきて、長太郎役の間に周りの俳優の方々の(大人俳優、子役関係なく)演技を見て学び、自分の中に取り入れて、演技を自分の物にしてきたんだな、と強く実感するからです。この見方はファンの欲目が、かなり入っていると思いますが、吉田さんを選んだ鍛冶さん、それと横に繋がりを持つ飯島さん、山際監督、そして何よりも、前番組の負債の視聴率から始まった枠を20%まで上げて26回で終わる予定だった作品をシリーズ化させた実績を持って、吉田さんの実力が本物であったという事は、誰にも否定できない事実だと私は思います。吉田さんの凄い所は、その実力を自分だけの物ではないと常に言い続けてきている事です。

浮草さんのブログ中で、『熱血あばれはっちゃく写真集』の中で、高校時代の吉田さんが後を継いだ3代目の荒木さんに対しての言葉を紹介してますが、それを読んも、『吉田さんは、熱血の激励パーティーに駆けつけて、(今のままのチームワークの良さと、体力でがんばれば、学校との両立もできる!)と力強くアドバイスをされた』また、初代のDVDBOXの特典の島田歌穂さんがインタビューを読んでも、『本当に心根の優しい子で気遣いもできるんだけど、でも、わざと逆に表現をしたりシャイな面がありましたね』『はっちゃくではトモが本当に生き生きしていて、いわゆる子役としてカッチリ決められたことをやるのでなくどんどん脱線していくんですよ。想像つかない弾け方をするトモの姿を大人の役者さんもしっかりと受けて止めていて、はっちゃくはトモあっての番組でしたね』吉田さんが、常に周囲に気配りをし、仕事に対して責任感を持っていらっしゃる方だと良く分かります。

それが成人後も続き、更に『はっちゃく』以外の作品でもそれは見られ『ウルトラ情報局』で『ウルトラマンレオ』に出演されるきっかけを話された時も、同じ児童劇団(日本児童劇団)に所属していた新井つねひろ君が、レギュラーにいたからと話され、『サイバーコップ』の映像特典の中では、スーツアクターの清家利一さんの事に触れ、(もう一人の方の名前を吉田さん自身が挙げてと思うのですが、今は手元にないので確認がとれないので後日改めて確認をしたいと思います。先にご存知の方がいましたら情報の提供といや清家さんだけだよという指摘が特典映像を見た事がある人でいましたら教えて頂けると幸いです)「自分の演技の癖をちゃんと再現してくれていたからアフレコがやりやすかった」と話されています。吉田さんは、常に周囲の人達の助けがあるからこそ、自分がちゃんとした演技が出来ると、おっしゃっています。

子役出身の俳優の方で、成人後も俳優を続けている方は多数いらっしゃいますが、子役時代に主演を貼って、役者名ではなく(上記に書いた幼い私のように)役名で覚えられた子役の人で成人後も俳優を続けている人は、そう多くはありません。吉田さんは高校時代に、(これも、浮草さんのブログに紹介されています)『熱血あばれはっちゃく写真集』の中で『将来は(存在感のある役者になりたい)ときっぱり!今、その夢にむかってまっすぐに進んでいる。』と語られており、その夢に向かって、『はっちゃく』以前も以後も、まっすぐ進んできたのだと思うのです。吉田さんはDVD特典のインタビューの中で「正直、『はっちゃく』が鬱陶しいと思った事もありました。」と語っていますが、これは、生涯の仕事として、俳優を選んだゆえの悩みだったのではないかと思います。

その後、御本人が6年前のゲンダイネット(2006年10月6日付け)のインタビューで『「いや、そんなふうには思わないですね。20代の頃は“はっちゃく”のイメージを消さないとって思った時期もあり、テレビの『あの人は今』の出演依頼も何回断ったか……。でも、基本的にノーテンキなのか、考え方が変わってきました。『サイバーコップ』にしろ『グランセイザー』にしろ、ネットなんか見ると、もう何年も前の番組なのに、今も新しい書き込みがある。子供たちに影響を与えることができて、大人になっても覚えててもらえる、ってのはうれしいですよ」 』と語られています。そこに至るまでには、数々の葛藤があったのだと推測します。

吉田さんが自分が『はっちゃく』だとして表に出てきた時期が、最終的に現時点で最終所属になったジャパンアクションクラブの俳優部門が出来た年なので、これは御本人の意志よりも事務所の方針だったと私は思っています。仕事に責任感を幼少時から強く持っている事は『熱血あばれはっちゃく写真集』にも書かれていますし、吉田さんの仕事に対する姿勢は常に真剣である事は、他の人達の言葉からも、吉田さんの演じた役を見ているだけの素人私にも伝わってくるからです。

この吉田さんの真面目さ優しさは、一朝一夕では出来上がりません。環境が子どもを育てるという言葉がありますが、子役の子が全員生意気だというのは偏見で、私自身も『初代はっちゃく』としてではなく『吉田友紀』という俳優と認識してからファンになってから、その考えを改めた人間なので、偉そうな事はいえませんが、吉田さんが子役時代の栄光に胡坐をかいて落ちぶれた俳優じゃない。という事だけは、はっきりと書き記したいのです。今、過去の子役を特集する番組や雑誌がありますが、そこに吉田友紀という俳優をしっかりと、取り上げていない時点で、私は片手落ちだと思っています。

吉田さんについては、まだ語りきれない事があるので、また次の機会に改めて書く事にして、その吉田さんを育てた吉田さんの父親鴨志田和夫さんについて少し触れてみたいと思います。鴨志田さんについては鴨志田和夫さん - 柿の葉日記にも書いていますが、吉田さんの実父である鴨志田さんは『俺はあばれはっちゃく』の制作時期に、他社番組の『ウルトラマン80』の制作進行をされています。当時、『80』のドラマ部分の制作は、国際放映が下請けとして担当するだろうと言われていました。それは、第二期ウルトラマンウルトラマンタロウ』と『ウルトラマンレオ』のドラマパート部門が国際放映だったからです。しかし、『80』の制作が始まる頃の国際放映は、放映延長が決まった『俺はあばれはっちゃく』での制作が忙しかったのではないかと、推測します。

なぜなら、『80』の放映枠が決まったのが1979年の夏頃で、『俺はあばれはっちゃく』の放映延長が決まったのも、同じ年の夏頃だからです。半年で終わる予定だった『俺はあばれはっちゃく』が延長された事で、『80』のドラマパートに第二期で予算的、スケジュール的にもベストなバランスで制作を行うノウハウが完成されていた国際放映を、下請けに出来なかった事情があったように思います。国際放映が使えない円谷プロが、何処にドラマパートを任せたかを調べると、大映ドラマが担当した事が分かります。大映国際放映と違い、1979年時点でテレビ特撮の経験値は少ないものの、映画作品『ガメラ』シリーズ(第一作は1965年の『大怪獣ガメラ』)があり、これは東宝の『ゴジラ』シリーズに匹敵するブランドだっただけに、そこでのノウハウをフィードバックする事で『ウルトラマン80』の制作に機能させようとしたのだと思われます。それを証明するのが『80』で『ガメラ』シリーズのメイン監督であった湯浅憲明監督が、メイン監督としてローテーションを回していった事からも明らかだと思われます。

ここで一つ抑えておきたいのが、『ウルトラマン』という一般的に特撮ドラマと呼ばれるドラマは『通常ドラマと違いドラマパートと特撮パートの共同作業で作品が作られる』という事です。大映本社自体には『ガメラ』での特撮の実績はあっても、上記したように大映本社自体には特撮テレビのドラマパート請け負いはほぼ皆無であったため、予算やスケジュール面において吉田友紀さんの実父である鴨志田和夫さんの所属する制作部が、シリーズ全体を上手くコントロールできなかった感は否めないと思うのです。(ただ、鴨志田さんがどの段階で制作部に入られたのか不明なので、あくまでこれは憶測の域を出ない事を付け加えておきます)

『80』は1974年生まれの私にとって、(その前にアニメの『ザ☆ウルトラマン』1979年がありますが、実写では)再放送ではなく、リアルタイムで見る初めての思い出の『ウルトラマン』です。息子の吉田友紀さんの頑張りの一方でその皺寄せが父親の鴨志田和夫さんに来てしまったのは結果論ではありますが因果を感じてしまいます。

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参考ブログサイト様:「うきくさのつぶやき」から2012年10月5日の記事『大役』2012-10-052012年5月14日の記事から引用させて頂きました。2012-05-14浮草さん貴重な資料情報をありがとうございます。