柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

2人の中原さんに疑問だらけ

1972年の秋

中原丈雄さんが1972年の秋に劇団未来劇場に入団されたことをしりました。以下のリンク先の記事で中原丈雄さんが1972年の秋に入団されたことを話されています。

blog.rkk.jp

私は2日前のこのブログで以下のように推測しました。ぴったり当たりではありませんでしたが、だいたい近いところをついていたと思います。

kakinoha.hatenadiary.com

中原丈雄さんは、駒澤大学を1年の時に中退されて、劇団未来劇場に入団されているので、19歳か20歳の頃に入団されたと考えると、1951年生まれの中原丈雄さんは、1970年か1971年に劇団未来劇場に入団と思われます。

つまりは既に1979年には、中原丈雄さんは劇団未来劇場の劇団員の1人だったわけです。また、同じ年の1979年に中原由視さんが劇団未来劇場の舞台『第37回劇団未来劇場公演ロートレックの特別料理』にも出演していることも書きましたが、中原由視さんは他の劇団未来劇場の公演『猿のセレナータ劇団未来劇場第36回公演』にも出演されていて、そこのパンフレットに演技部一員として名前が書かれていたので、中原由視さんもまた劇団未来劇場の劇団員だったことが分かりました。

その『猿のセレナータ』のパンフレットには、中原由視さんの名前はありましたが、中原丈雄さんの名前はありませんでした。既に1972年に入団されているのなら、1979年公演には劇団員として名前があってもいいのでは。それなら、やはり中原由視さんは中原丈雄さんではないかとも思います。

けれども疑問

それでは、1979年の劇団未来劇場の公演の舞台に立った中原由視さんが中原丈雄さんだと仮定して話を進めましょう。中原由視さんは、1作目の『3年B組金八先生』(1979年10月26日~1980年3月28日)に記者役として21話、22話に出演しています。そうなると、中原丈雄さんは中原由視名義で1979年〜1980年の間にテレビドラマデビューされていたことになります。

それでは、なぜこれまで多くの公式の場で、テレビドラマデビュー作がポーラテレビ小説『女・かけこみ寺』(1982年4月5日~10月1日)とされてきたのでしょうか。そして、もしもNHK朝ドラ『本日も晴天なり』の17週目(1982年1月25日~30日)から登場した工藤役が中原由視名義の中原丈雄さんだとしたら、なぜ先に出演して放送されている『本日も晴天なり』の方をテレビドラマデビュー作とされてなかったのですか?

それに中原丈雄さんの映像メディアへのデビューのきっかけは、1981年11月に公演された劇団未来劇場の舞台『ニューオリンズからマーマレイドが届いたよ』の主演だとされています。この『ニューオリンズからマーマレイドが届いたよ』は、1981年11月7日~23日まで博品館劇場で上演されました。

www.hakuhinkan.co.jp

NHKの朝ドラは今もそうだと思いますが、放送の1年前ぐらいから撮影が始まっていて、1982年1月に放送される話は放送よりももっと早く撮影されているはずです。撮影よりも前に台本が作られる時間、その台本を覚える時間もあります。1981年11月の舞台がテレビドラマデビューのきっかけだったとして、1982年1月の放送のテレビドラマの収録に間に合うものでしょうか。

それでは、『3年B組金八先生(1作目)』に既にテレビドラマに出ていた中原由視さんが中原丈雄さんだから、朝ドラにも出演が出来たんだとするのなら、どうして『本日も晴天なり』に出演していたことをこれまで公表されていなかったのですか。

私はこれまで10年間(1972年の秋に劇団未来劇場に入団されてから)舞台の演技をしてきた中原丈雄さんが、1981年11月の舞台をきっかけにして、翌年1982年4月から始まるテレビドラマ『女・かけこみ寺』に出演することになったという流れの方が無理がなく、自然に思います。

それに、中原丈雄さんは1982年のテレビドラマデビュー以後も「中原丈雄」名義で仕事をしていて、その間も「中原由視」の名前でテレビドラマや映画、テレビCMに出ている中原由視という俳優が存在しているのです。

疑問だらけ

質問します。中原丈雄さんが中原由視さんだとして、どうして、中原丈雄さんは中原丈雄と中原由視の二つの名前で同時期に活動されているのですか。二つの芸名で活動される理由を教えてください。

中原丈雄さんは『本日も晴天なり』は、正式なテレビドラマデビューではなかった。その後『女・かけこみ寺』で正式にテレビドラマデビューして中原由視から中原丈雄に改名したんだとすると、1982年以降に中原由視という名前でテレビドラマや映画に出演している人がいなくなりますが、それでは、1983年『痛快あばれはっちゃく』5話、1985年『逆転あばれはっちゃく』に出演された中原由視さんはどうなるのでしょうか。

『逆転あばれはっちゃく』(1985年)2話OPより

中原丈雄さんが中原由視さんだとして、1982年の『女・かけこみ寺』の出演を機会に、中原由視から中原丈雄に改名をしたとするのなら、改名後も3年近くも改名前「中原由視」の名前で4代目『痛快あばれはっちゃく』、5代目『逆転あばれはっちゃく』に出演されていたのですか?さらには1983年のテレビドラマ『ひとりぼっちのオリンピック』(1983年3月20日・TBS)1985年7月20日公開の市村崑監督の『ビルマの竪琴』(東宝)の脇役までにも旧芸名で出ていたということですか。

中原丈雄さんは、1986年7月27日放送の『私鉄沿線97分署』84話に出演されていますが、中原丈雄さんは1986年から中原由視名義から中原丈雄名義に本格的に変更されたということですか。なぜ、このような芸名をまだらにして芸能活動をされていたのでしょうか。私は不思議で仕方がありません。

それに中原丈雄さんがデビューのきっかけになった舞台公演(1981年11月公演)の前に、中原由視と名乗る俳優が『3年B組金八先生(1作目)』に出演していたのはどういうことでしょうか。テレビドラマデビューのきっかけの舞台の前にテレビドラマに出演されている意味が分かりません。

詳しいことを知っている人は教えて欲しい

中原由視さんと中原丈雄さんに関して私の上記の質問に答えることが出来る人がいたら教えて欲しいです。私なんかに教えなくても、お2人の経歴をご存じならば、Wikipedia等に書いて欲しいです。

私はやはり劇団未来劇場に中原由視さんも中原丈雄さんも在籍していたと思います。『猿のセレナータ』のパンフレットに中原丈雄さんの名前がなかったのは、その公演に中原丈雄さんが参加されていなかったからではないかと思います。

余談

最後に余談ですが、2人の中原さんについて劇団未来劇場が上演した作品を調べていく中で、劇団未来劇場の団員の中に、恒吉雄一さんの名前を見つけました。恒吉雄一さんは、『男!あばれはっちゃく』の1年目で父ちゃんの上司で邦彦の父親の佐藤部長を演じた人です。その後も『あばれはっちゃく』シリーズに出演してくれた俳優さんの一人で、中原由視さんがヒロインあかねちゃんのお父さんとして準レギュラーで出演した最終作の5代目『逆転あばれはっちゃく』にもゲスト出演されています。

私は思うんですが、邦彦の父親役で1年間2代目『男!あばれはっちゃく』に準レギュラー出演していた恒吉雄一さんのつてで、同じ劇団にいた中原由視さんが4代目『痛快あばれはっちゃく』にゲスト出演、5代目『逆転あばれはっちゃく』に準レギュラー出演の話が出たりしたのではないでしょうか。

そして、『女・かけこみ寺』にも出演していた中原由視さんも中原丈雄さんも同じ劇団にいた関係で、同じテレビドラマに出演することになった。先にテレビドラマ(『3年B組金八先生(1作目)』『本日も晴天なり』)に出演していた中原由視さんはそれがデビュー作にはならなかったけれど、それまでテレビドラマ出演をしていなかった中原丈雄さんは『女・かけこみ寺』がテレビドラマデビュー作になったと私は思うのですが……。

誰も答えてくれないと思いますけれども、みなさんは私の疑問や中原由視さんと中原丈雄さんについての考えをどのように思いますか。