柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

『男!あばれはっちゃく』61話「ン?小さな恋人」感想

『男!あばれはっちゃく』61話より

1981年5月30日放送・脚本・市川靖さん・松生秀二監督

そっか同い年なんだ

今回、登場してきた立川由加ちゃん。長太郎の小学校の1年生。この話が放送されたのは1981年。1981年は1974年度生まれの私も小学1年生でした。そっか、由加ちゃんは私と同い年、同学年なんだなって思いました。この時の長太郎が6年生。当時はあんまり意識していなかったけれど、小学校に入学した時の最上級生のお兄さん、お姉さん達は2代目長太郎達と同い年だったんですね。

『男!あばれはっちゃく』61話より

なんて、なんでこんな当たり前のことに今さら感心しているのやら。子どもの頃に『あばれはっちゃく』大好きで見ていたけれども、長太郎達をお兄さん、お姉さんって見ていた部分と自分達と同い年って見ていた部分が混在していて、それは自分が長太郎達の年齢に追いついてきたっていうのもあるんだけれども、同い年っていう認識は初代から少し持っている部分もあったから不思議。

多分、年上でも、そうだそうだって共感できる部分が多くあったから、長太郎は自分と同じだって思うところがあったし、その反対に小さい子の面倒を見ていて手を焼いている長太郎を見ると年上なんだなって感じたりするところが子どもの頃にあったんじゃないかなって思いました。

今回は長太郎がお兄さんに見える話ですね。その理由になるのが由加ちゃんの存在で、由加ちゃんは私と同じ年齢設定なんですけれども、由加ちゃんと同い年という実感は少なく、幼い印象がありました。由加ちゃんの口数が少ないのもあるんですけれども、私が大人になってどちらかというと、長太郎の視点で話を見ているからかもしれませんし、子どもの頃の私は大人から見ると、ひどく幼い存在だったのかなって思ったりしました。

物心がついた頃には、既にいっぱしの自我がありましたから、意識的には現在と変わらないっていう自覚があって、小学1年生の時には、自分なりの意思を持っていたので、もっとこう自己主張、意思表示っていうのが私にはあったんですが、由加ちゃんにはその自己主張、意思表示がないおとなしい子だったので、幼く見えたのかなあ。でも、私も人見知りで、知らない人やそんなに親しくない人には大人しかったから、それだったら、私が由加ちゃんに感じた幼さを当時の周囲の年上の人達は思っていたかもしれない。

私、小学1年生の時は意外としっかりしていた子っていう認識だったんですけれども、ただ、おとなしかっただけだったのかな、なんて由加ちゃんを見ていて思い返していました。多分、子どもの頃は長太郎視点で同い年の由加ちゃんを迷惑な年下の子って見ていたと思うんですけど、こうして大人になって見返すと、1981年当時の私自身を振り返って見てしまいます。

全体的におとなしめ

今回は父親がなく、母親が多忙で寂しい思いをしている由加ちゃんの面倒を長太郎が見る話でしたが、話が全体的に見ておとなしい印象を感じました。長太郎が年下の子に気に入られて押しかけられ、迷惑に感じながらも面倒を見る話は、初代『俺はあばれはっちゃく』からあって、こうした話のパターンも『あばれはっちゃく』の定番の話の一つでしたが、今回の話はその中でもおとなしい話だったなって思います。

初代『俺はあばれはっちゃく』の9話のマサミや32話のマユミちゃん、36話あゆみの話と比較しても、また、同じ『男!あばれはっちゃく』の10話と比較しても、ハチャメチャさが足りなく感じました。マサミもその母親も、マユミちゃんもその両親も、あゆみもその父親ももっと押しが強く、10話のショウイチもは母親ももっとパワフルで勝手だった印象だったのが、今回の由加ちゃんとそのお母さんはおとなしかったなって思いました。市川靖さんの脚本としては珍しいかな。

初代9話の脚本は市川靖さんだったので、由加ちゃんにもマサミ並みの強引さがあった方が長太郎の困り具合が大きくなって良かったかもって思いました。同じパターンではなく別のおとなしいマイペースさで長太郎を翻弄したのかなあ。長太郎がお腹が減ったと言った時に自分の母親の仕事場であるディスコの厨房へどんどん入っていった由加ちゃんに戸惑いながらもついていったとこは、振り回されていたしなあ。

なんか、今回長太郎を困らせたのは、長太郎が厨房にきた話を聞いてくれなかった由加ちゃんのお母さんと仙海和尚だったかな。今回は仙海和尚と由加ちゃんのお母さんが幼馴染の知り合いということもあって、長太郎の行動が仙海和尚には迷惑だったみたいで、いつもの理解ある和尚ではなかったのが新鮮で、反対に仙海和尚に追い出されて出てきた長太郎を見つけた父ちゃんが頭ごなしに怒鳴らなかったのが意外でした。

父ちゃんは由加ちゃんに関連した別口の件で、長太郎をいつものように怒鳴って家から追い出すんですけれども、今回は由加ちゃんに加えて、父ちゃんもいつもよりも大人しかったのも(父ちゃんは仙海和尚相手に暴走するけれども)、いつもよりハチャメチャさの度合いが少なく感じた理由でした。

豪勢だなあ

父ちゃんは仙海和尚がぬぐるみや花を買っているのを目撃していて、その理由を知るために追い出された長太郎に聞くわけですが、その為に長太郎に寿司を奢るという豪勢なことをします。長太郎、3人前食べていますよね、しかも、もっと知りたい父ちゃんの気持ちを使っておかわりしているし、父ちゃんのマグロも食べるし、ちゃっかりしているなあ。

『男!あばれはっちゃく』61話より

このお寿司、相当高いと思うんですけれどね。父ちゃん並を注文したけど、長太郎が上って言い直していて。どれだけ食べるのかと。回らないお寿司屋さんなんて、私、子どもの頃に1回だけ家族と行ったきりですよ。

うちは母が握り寿司を作れる人で、夕食にお寿司が出ることがあったんですね。だから、子どもの頃からお寿司をお腹いっぱいに食べることは出来ていたんです。けれども、お店でお寿司を食べるようになったのは、かっぱ寿司が近所で開店してから、小学校高学年くらいになると小僧寿しの持ち帰り寿司が出てきて、手ごろなお値段でお寿司が買えるようになったんですけれども、回らない寿司屋のお寿司には縁がなかったから、長太郎がちょっと羨ましかったなあ。

1皿100円のお寿司なんて、当時、めちゃめちゃ安いと思っていたけど、今はその1皿100円の回転寿司も珍しいものになってしまって、残念ですね。日本が豊かになっていったのを体感してきた子ども時代を経て、次第に緩やかに貧しくなっていく日本を体感していくと、活気のあった時代を懐かしく感じてしまいます。

同じ人間だと認識する

長太郎は由加ちゃんを通りかかった1年生の男の子に押し付けて、バトミントンをしているみゆきちゃん達のとこに行くんですけれども、その時に章が由加ちゃんのことを心配して長太郎に文句を言うんですよね。章も父ちゃんが仕事でいない時は寂しかったって、長太郎は寂しくないって返すんですけれども、いつも父ちゃんも母ちゃんも傍にいる長太郎君には分からないって章は返すんです。

『男!あばれはっちゃく』61話より

同じ経験をしているから分かる章と経験がないから分からない長太郎。実際に経験が出来なくても経験した人から話を聞いたり、本やドラマでそういう境遇の人を見て思いを重なることで、想像する、追体験することは、実際の自分の経験と合わせて体験を増やすことになるんだって、私は思ってます。

けれども、どうも世間では、追体験だけで実践が伴っていない頭でっかちっていう批判を受けるんですよね。少なくとも、私は、そういう罵声を浴びて生きてきたので、追体験は良くないことなのかなっていう気持ちも少し持っています。追体験だけで、実際の経験が少なすぎるのは問題ですけれども、罵声を浴びせた人達ってどれだけ私の実体験を知っているんでしょうかね。私という人間と少し付き合ってみて、中身がないなって感じたからそういうんでしょうけれども。

なんか、相手も自分と同じ感情、心を持っているってことを忘れている人が増えてきているんじゃないかなって思います。だから、平気で相手の心を抉り、必要以上に痛めつける言葉を平気で言える、書ける人がいるんじゃないかなって。後は、相手の姿が見えないと同じ人間だと思わないのかもしれません。文字だけだと人として認識しないのかな。

章は自分の経験に基づいて、自分と同じ寂しい心を持つ由加ちゃんのことを気にかけている。他人も自分と同じ人間だと認識しているんですよね。反対に大丈夫だって答えた長太郎も自分と同じ強い心を由加ちゃんが持っていると思っているから、大丈夫だって言える。章と長太郎の由加ちゃんに対する感情は、違うんだけども、同じなのはどちらも由加ちゃんをちゃんと自分と同じ人間だって認識しているところなんです。

今、見たからこそ出た感想

あばれはっちゃく』を見返しながら思うのは、考え方や感じ方、育ってきた環境が違っていたりしても、人が人を同じ人間だと相手を認めていて、というか相手が同じ感情を持つ人間であることは当たり前の大前提の話で、その環境や育ちの違い、考え方の違いを通して、相手を理解したり、自分が経験できない感情を知ることで、世の中にはこうした種類の感情もあるんだって、視野を広くすることが人との交流の幅を広げ、世界を豊かに広くしていくんだなって思うんです。

自分と考えや感じ方の違う人は否定をしてしまう。そういうことは、私にもあって理解が出来ない人もいるけれども、そういう考え方があるんだって分かっても、到底、同意出来ない感情や思想もあるけれども、それでも、目の前にいる他者は自分のように心を持つ人間であると思って、誠意ある対応をする必要があるんじゃないかなって思うんですよ、ね。あまりにも、非常識で腹が立つ相手もいるけれども、それでもって。

まあ、でもそう思っても、相手がこちらを人間扱いしないで、土足で心を踏みつけていくのなら、こちらもそれなりの態度に出てしまいますけれども、一方的に相手を言葉で殴るのは良くないなって『あばれはっちゃく』を見てから、SNSでの争いを目にすると、そんなことを私は思ってしまうわけです。

あの時代にまだSNSはなかったけれども、一人の人間を人間として見ないで集団でいじめをすることはありましたから、それが公に目に見えるようになったのが、SNSでの争いやlineいじめなんじゃないかなって思います。文字だけで顔も知らない相手に酷い言葉を出せる人は相手を人間だと認識していないし、素性を知りながら酷い言葉が言える人はもっと酷い。

ネットだけでもリアルでも、相手が同じ人間で傷ついたり、怒ったりする心を持っている他者だっていう当たり前の前提を、もう少しだけでも思い出す、気づくことが大事なんだなって、この61話の由加ちゃんを心配する章の言葉を聞いて思いました。

これは、現代に見返したからこそ、現代のSNSでの誹謗中傷で亡くなる人達を知っているからこそ、出てきた子どもの頃に見た時には出てこなかった感想なんだと思いました。皆さんは子どもの頃に見ていて、今、DVDで見返した時に、子ども時代には思いもしなかった感想になることはありませんか。

変わらない部分もあると思いますが、大人になっていろいろと経験して社会が変化したからこそ、同じ話を見ても違う感想が生まれることが私はあるので、このブログの読者の方で同じ時代を生きてきた私以外の人はどうなんだろなって、そんなことを思いました。