柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

崩壊していく言葉

言葉

言葉って時代と共に微妙に言い回しとか変わってきたなって思います。私自身も、変な言い回しや言い方をしていて、自分自身でも自身の変な言葉の使い方に気持ち悪さを感じています。本来の言葉の意味と正反対の意味で言葉を使っているなんていうのは、序の口で奇妙でおかしい使い方、新しい表現とか、なんかもう別の国の言葉みたいで、私は本当に日本に住む日本人で日本語を理解して話している一人なのだろうかって思ってしまうことも、しばしばです。

若い人たちの使う言葉「ぴえん」とか「キュンです」とか、そういうのは、次の新しい世代が生み出した言葉が台頭していくと、ある時期から死語になっていく言葉もあるので、時代の顔の言葉なんだなって思うんですけど、年齢問わずに言い方が少しずつ崩れていった言葉というのは、定番化して馴染んでしまうので、それに馴染めないと私の中では、変な日本語として違和感を持ち続けることになるんですね。

私の中で、今、変な日本語としてあるのは、「違くて」という言葉。これって、いろんな人が年齢に関係なく、当たり前のように使っていて、それを耳にしたり、目にしたりすると、「ああ、変」って思うんですよ。「違くて」じゃなくて、「違って」じゃないのって。

昔、れ足す、ら抜き言葉が日本語の乱れとして話題になった時期がありましたが、それと同じ違和感を感じるんですよね。誰も疑問に思わないのか、いろいろな所で耳にしたり、目にします。多分、今ではそれは普通の誰もが疑問に感じない日本語になっていて、違和感を感じる私の方がおかしい日本語を使う人になっているんだなって。

他にも「真逆(まぎゃく)」という言葉にも私は違和感を覚えます。「真逆(まぎゃく)」ではなくて、「正反対」ではないのかって。後は、話が終わったかなって思っても「ので」と話を牛の涎のようにダラダラと繋げて話していくのも、奇妙だなって感じます。牛の涎というのは、私が勝手にイメージしたものですが。

後は自分自身でもこの記事の中で使っているんですが、「だと思います」「感じます」「そんな感じ」という考えを断定をしない、ニュアンスというか、気持ちの方を優先して、対立する意見を柔らかく回避するというか、回避出来ていなくても、断定を避けることで、これは私の感情に過ぎませんと争いをさけて、自分の断定したい考えを回避する日本語も目立ってきたなって思います。

「確信犯」の誤用も、「気が置けない」の誤用も多くなって、今では反対の意味だと認識している人達が多くいて、昔の新聞や小説を読んでも、その内容を正反対の意味で解釈している人も多くなっているんだろうな、同じ日本語でも正反対の意味で言葉を捉えていると、もはやそれは同じ日本語を理解しているとは言えないと思います。

別に自分が正しい日本語を使っているとは言いません。私の物心がついて、喋れる時代から既に日本語が崩れていて、日本語が変形して、意味も違うものに変化していた可能性だってあるんだし。

それでも、私は幼いころに耳馴染み、辞書を引いて覚えた言葉の意味が、私が大人になっていくにつれて徐々に崩れていって、自分が覚え使ってきた日本語とは別の日本語に変化していく不気味さ、それに違和感を持たない周囲の日本語を使う人達が異人のように見えて、時々、怖くなるのです。

そのうち、私の使う日本語なんて誰にも通じなくなっちゃうのかなって思ったりもします。私、日本語しか使えないから、日本語も通じなくなってしまうと困ってしまいますね。このブログの内容を理解してくれる人、賛同してくれる人が、まだいるのなら、少しは希望が持てるのですが。