柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

5代目でショックだったこと2点

人それぞれだと思いますが

これまでも書いてきましたが、私が子どもの頃に見ていた『あばれはっちゃく』は、初代『俺はあばれはっちゃく』~4代目『痛快あばれはっちゃく』までです。5代目の存在を知ったのは20歳を過ぎてから、作品を見るようになったのは、DVD化されてからです。

5代目はそれまでの4作の『あばれはっちゃく』とは、少し設定の変化が見られ、初代から4代目まで通して主題歌として使われていた「タンゴむりすんな」が主題歌として唯一使われなかった作品でした。

「父ちゃん」「母ちゃん」の呼び方も「とうさん」「かあさん」になり、また、それまで、長太郎の同級生達はメインになる6人、4人、5人の同級生で、他はその他大勢だったクラスメイトが固定され、詳しい設定や、固定配役になり、それぞれメインの話がある同級生もいました。

また、同級生達が長太郎を呼ぶ呼び方も、初代から4代目までは「長太郎君」と名前で呼んでいたのが、5代目「桜間」「桜間君」の苗字呼びになったのも違います。

長太郎のひらめきのポーズも変わりましたが、それは既に前作の4代目でも変わっていて、さらに5代目の話の中で歴代の長太郎のひらめきポーズもしているので、特に5代目特有の特徴ではないと感じました。

こうした細かい設定の変更よりも、私が5代目で変わってしまって、大変、残念で悲しいなと思ったことが2つほどありました。話の中で、その残念に感じたことに対する救済はありましたが、ああ、こういう話を『あばれはっちゃく』の中で見ることになってしまうのか、と。

既に終わっていて、放送された過去の作品であり、その作品『逆転あばれはっちゃく』が放送されていた当時は、見てもいなかった私なんかが、今更書くことではないことですし、私が勝手に好きな『あばれはっちゃく』の型にはめ込もうとしているだけに過ぎず、逆に私が思う『あばれはっちゃく』とは、こういう作品だというのから外れているのならば、マンネリ打破を目指したスタッフの皆さんの勝利なのだとも思います。

前置きが長くなりましたが、以上のことを分かった上でも、私が5代目『逆転あばれはっちゃく』を見て悲しかったことを2点だけ書きます。5代目が大好きで読みたくない方は、ここで読むのをやめて頂いた方が、お互いの為だと思います。決して、5代目を貶める目的はないことをご理解して頂き了承できる方のみ、これ以降をお読みください。

長太郎が父ちゃん(父さん)を恥ずかしく思う

初代から4代目までの長太郎は、父ちゃんのことをとても尊敬し、誇りに思っていました。長太郎にとって、父ちゃんは自慢の父ちゃんで、喧嘩をしたりするときに悪態をついても、基本的に父ちゃんのことを恥ずかしいと思ったことは一度もなかったです。

けれども、5代目の長太郎は父さんをダサいと思い、2話で参観日に来て欲しくないと願います。もちろん、この2話の中で父さんのことをダサいと思い、父さんを傷つけたことがどれだけ悪いことだったのか、桜間家の間で互いに話し合い、父さんが大事な存在であり、長太郎が父さんを大好きだといったところに帰結して良かったと思いましたが、この2話を初めて見た時は、長太郎が父さんを疎ましく恥ずかしく思っていることがショックでした。

『逆転あばれはっちゃく』2話の脚本を書かれた名倉勲さんは、4代目の後半から『あばれはっちゃく』に参加された脚本の方ですが、それがこれまでの『あばれはっちゃく』シリーズを書いてきた方達とは、違う雰囲気を感じたのかもしれませんし、5代目からイメージ転換をすることが目的だったために、それまでとは違う長太郎の父ちゃんへの感情を主軸にして、これまでの本来の長太郎の父ちゃんを尊敬して大好きな気持ちへ帰結する話を書いたのかもしれないのかな、とそんなことを2話を見て思いました。

f:id:kutsukakato:20220221103544j:plain
f:id:kutsukakato:20220221103554j:plain
『逆転あばれはっちゃく』2話より

長太郎が同級生をいじめる

2代目から長太郎は転校生の設定になり、クラスからいじめにあうようになります。これは5代目も同じです。私が残念で悲しいと思ったのは、長太郎がいじめられるだけではなく、長太郎も何も悪くない同級生・宇派留太君をいじめたことです。

初代から4代目の長太郎は何かしら理不尽があった時、自分なりに正当な理由がある時は、反抗したりしますが、何もしていない、落ち度のない人間を遊び半分でいじめたことはありません。

逆にいじめられている子を助けるのが長太郎です。初代38話の長太郎は、クラスメイトにいじめられていた三太を助けて励ましています。他にも初代は9話でマサミ、16話でヒトミちゃん達、26話でてるほを助けています。

長太郎が自分よりも弱い存在を意味もなくいじめることはなかったので、5代目の長太郎が宇派君を見て、当時、流行っていたウーパールーパーに似ているということで、無理やりウーパールーパーの格好をさせて、クラスメイトの笑い者にしたのは、とても残念でした。

山西先生がその場にいて、すぐに長太郎を罰しましたが、長太郎自身が反省しているようには見えませんでした。長太郎が1話でいじめられているよりも、8話で遊び半分で宇派君の気持ちも考えずにいじめをしていたのことは、とてもショックでした。

f:id:kutsukakato:20220221094618j:plain
f:id:kutsukakato:20220221094645j:plain
『逆転あばれはっちゃく』8話より

5代目『逆転あばれはっちゃく』DVD付属の解説書には、『逆転あばれはっちゃく』がどのような企画意図をもって制作されてたか、現存する企画書を参考に紹介されています。以下引用です。

 まず企画意図の冒頭で強調されているのは「マンネリの打破」であった。その観点から、いくつかの新機軸が検討されている。

 最初の問題提起は、シリーズを重ねるにつれて、はっちゃくが「かわいい子」「良い子」になってしまっているのではないか、というもの。これに対する回答として、はっちゃくをもう一度、本来の「手のつけれない暴れん坊」に戻そうとする提言がなされている。(『逆転あばれはっちゃく』DVD付属解説書より引用)

マンネリ打破の為に長太郎を本来の手のつけられない暴れん坊、あばれはっちゃくに戻そうとするのは分かりますが、長太郎の方から同級生を笑い者にするのは違うように思います。

山西先生がその場にいて、すぐに長太郎を叱るのですが、体育の授業が終わって教室に戻ってきても長太郎や他のクラスメイトは宇派君にしたことを悪いとは思っておらず、クラスメイトは長太郎のせいで怒れたことを長太郎に怒っていて、怒れた長太郎は再び宇派をウーパールーパーに見立てて笑いをとっているのです。

f:id:kutsukakato:20220221101131j:plain
f:id:kutsukakato:20220221101152j:plain
『逆転あばれはっちゃく』8話より
f:id:kutsukakato:20220221102123j:plain
f:id:kutsukakato:20220221102143j:plain
『逆転あばれはっちゃく』8話より

ここでも、山西先生がきて長太郎はエリマキトカゲの格好をさせられて校庭を走らせ罰を受けますが、止めもせずに笑っていたクラスメイト達はお咎めなしです。

次の日には、長太郎の宇派いじめを1話で長太郎をいじめた五郎が真似をして、長太郎が注意をしたり、話が進むと長太郎の方から宇派に謝ったりして、宇派がウーパールーパーに似ていることを悩むのを長太郎が、そんなことで悩まないで堂々としていれば、いいんだと励ましているのですが、どうにも先人切っていじめていた長太郎がそれを言ってもなあ、と思ってしまうのです。

f:id:kutsukakato:20220221101331j:plain
f:id:kutsukakato:20220221101351j:plain
『逆転あばれはっちゃく』8話より

最終的に小さなことで悩むなというメッセージを感じ、宇派も長太郎と和解はするものの、長太郎がいじめたのも、話を見ながら分かるものの、このやり方しかないのかな、と。

8話の長太郎はそれまでの前作の4人の長太郎達よりは、意味もなく公一をからかった原作の長太郎に近かったのかもしれないと思いました。そういう意味では、8話の脚本を書いた市川靖さんは、原作の長太郎をテレビドラマの世界に引き入れたように思います。

でも、8話を最後まで見ながら、長太郎と宇派の関係は、まだ許せるものの、いじめを悪いと認識せずに笑っていた長太郎の同級生達の方が私は嫌でした。また、その同級生達を罰することなく、長太郎だけを罰した山西先生にも疑問を感じました。

頷ける部分と許せない部分とがないまぜになって、話冒頭の長太郎のいじめのショックもあって、どうにも自分の中で、なかなか消化できない話になっています。

また『逆転あばれはっちゃく』は、父さんの職業が大工から動物園の飼育員になり、当時流行っていたエリマキトカゲやコアラ、ウーパールーパー等珍しい動物、それまで人気の動物も多く登場してきましたが、長太郎の同級生の宇派留太が、そもそもウーパールーパーありきで設定された人物であるということも、とても残念に思いました。

私は自分のわがままを押し付けているのではないか

私が5代目は『逆転あばれはっちゃく』で特に残念だったのが、長太郎が父ちゃん(父さん)を恥ずかしく思っていたこと、長太郎が同級生を遊び半分でいじめていたこと、この2つでした。

これは個人的な感想になりますが、2話も8話も最初のショックはありますが、話を見ていくと、最終的には『あばれはっちゃく』らしい話の閉じ方にはなっているのですが、どこか引っかかりを感じてしまいました。

5代目はマンネリ化したシリーズを変えようとして、本来作品が持つ良さまでを変えようとして、作品の本質を見失ったように感じます。しかしこれも作品の本質がどこにあるのか、それは私が勝手に『あばれはっちゃく』にこうであって欲しいという、私だけの理想の形であって、私が思っている作品の本質に過ぎないだけではないかとも思ってしまいました。

私の中で大人になってから知って見るようになった『逆転あばれはっちゃく』を受け入れるのには、まだ時間がかかりそうです。