柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

メッセージはあれど

 

娯楽作品なのだから

最近、私の悪い癖で『あばれはっちゃく』を道徳的、教育的な作品として評価しようとしているとこが我ながらいやらしいと感じます。

作り手には何かしらのメッセージがあり、また作品の内容から感じ取るもの、共感することなどがありますが、一番は日々の生活に彩を与える、楽しさを提供することが一番にあったのではないかと思うのです。

それをことさら、教育的、道徳的な話として持ち上げるのはどうなんだろうって思うんですよね。

まず、楽しさから入って楽しいから見ていた。

道徳や教育として勉強の一環として『あばれはっちゃく』を見てはいなかった。

面白かったから、楽しかったから、好きだったから、自分と同じ子どもでそれでいて、自分には出来ないことをする、やってみる長太郎が痛快で面白くて、カッコよくて、だから見ていた。

自分の日常と似た彼らを見て、共感したり、自身と重ね合わせたりしていて、それは誰に教わることのない私なりの楽しみ方だった。

なんでしょうね、好きな作品に否定的な意見を目にしたり、耳にすると、決してそんな低俗で暴力的なだけの作品ではなかったと反論したくなってしまって、必要以上に道徳的な部分や教育的な部分、人として大事なことが書かれていることを強調してしまって、本来の娯楽要素、楽しくカッコよくて面白い作品で共感を持つことが出来たから、大好きだったって部分が抜け落ちて擁護してしまうんです。

父ちゃんの暴力や長太郎の反発心だけにしか目が向かない人は、今も昔も一定数存在していて、そういう人達にはその奥の作品に込められたメッセージ、子ども達が励まされ、慰められた話の内容までは分かっていただけない、そもそも見えている中身が違う、同じものを見ても、見ている先が違うから理解出来ない、価値観の違いというか、そういうのが存在しているってことが次第に分かってきました。

また、話の内容よりも登場する人物(特に容姿)だけに騒ぐ人達もいて、作品に求めるものが違う人も結構いるんだなって分かってきて、一つの作品に関しても、本当に人の数だけ物の見方、好きな部分、そもそも関心を持っていない部分があって、評価は一律ではないのだなってこう12年もブログで『あばれはっちゃく』について書いていると、いろんな感じ方をする人達がいるんだなって思うようになりました。

ここに来てくださり、ここまで目を通してくださる方達は、私の意見に近い感性をお持ちだと信じて己惚れているところはあるのですが、私は作品から感じ取ったメッセージを私はこう感じて受け止めたと書くべきか、ミーハーにカッコよかった、可愛かった、面白かったとはしゃいで書くべきか迷う時があり、その匙加減がとても難しいなって感じています。

それに私の読み取り方も一つの例であり、正解ではありません。

そもそも、娯楽、楽しみ方に正解なんて存在しないですしね。ただ、人の楽しみ方、見方に対して、賛同したり、そうかなあって疑問に感じたりするのはあるわけで、それは私も同じように思われているんだろうなって思うわけです。

なんか、まとまりがなくなってきましたね。何を書きたいかというと、必要以上に作品を高尚なものに持ち上げたくないなってことなんです。

だからと言って貶めたいわけでは決してない。これ、分かってくれる人はいるのでしょうか。不安です。

スピンオフについて

それから、シリーズにお馴染みに登場してくる俳優の方の出演についてですが、『あばれはっちゃく』だけが特別にその作り方をしていたわけではなく、『あばれはっちゃく』が始まった1970年代までのドラマの作り方としては、一般的だったスピンオフを『あばれはっちゃく』だけの文化だと勘違いしてしまうのは、時代を知らない、見ていない、忘れていることなので、その点も折に触れて紹介していきたいですね。

今は「スピンオフ」の意味が変わってしまったので、本来の意味も添えて紹介しているのですが、あまりそこは読んでくださる方には重要視されていない必要な情報になっていないと感じているので、あんまし私のブログって伝える役目をはたしていないのかなってがっかりしますけれども、書き続けることで、読んで理解してくれる人たちは存在する。私の目に見えないだけなんだって思うことにします。

今日は、ダラダラと私の作品に対しての思いとブログで書いてきたことについて取り留めもなく書いてみました。