柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

もしかして市川靖さんが原作『あばれはっちゃく』から読み取った核はこれかな?

『痛快あばれはっちゃく』のDVD1枚が駄目になってしまったので、今回の給付金で中古品を買いなおしました。

そこで、改めて『痛快あばれはっちゃく』ディスク1枚目をチェックを兼ねて1話から7話まで見返しました。

見返してみて、ふと、気が付いたことがあったので、ちょっとしたメモ書きとして書き記しておきます。

 

個人的見解

『痛快あばれはっちゃく』4話を見て、私が思い出したのは初代『俺はあばれはっちゃく』5話と2代目『男!あばれはっちゃく』9話でした。

この3話を書いた脚本家が市川靖さん。

私はこの3話に共通点を見ました。

長太郎がどういう人物かということを市川さんなりに解釈して決定づけている話だからです。

私は過去記事で、『男!あばれはっちゃく』9話は『俺はあばれはっちゃく』5話のセルフリメイクだと推測しました。

さらに、『俺はあばれはっちゃく』5話は原作『あばれはっちゃく』の「のしイカ作戦」を下敷きに、話の肝を変えずに分解してドラマ用に組み立てたのではないかと推測しました。

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その市川さんが組み立てなおした話は、長太郎が曲がったことが許せない正義感、自分に疑いがかけられる悔しさを感じながら、相手のために自分が折れること、自分の主張を下げることを選択する、好きな人のために悔しさを押し込め、歯を食いしばる男の辛さ、やり切れなさが書かれています。

初代ではヒトミちゃんに喧嘩も暴力もしないと約束し、それを守るためにヒトミちゃんに誤解されても、茂たちに殴られ、馬乗りをされて犬の鳴きマネを強要されても、我慢をし、ボクシングというスポーツで茂と決着をつけました。

2代目は邦彦がついた嘘を暴き、邦彦のせいで悪者扱いされていた長太郎は邦彦を追い詰めようとしましたが、みゆきちゃんの言葉やカヨちゃんの言葉で思いとどまり、事情を知らない同級生達から嫌味を言われても、邦彦を追求せず、さっぱりとそういうのに興味がないと邦彦を立てました。

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4代目の4話はまゆみちゃんが作ったお料理クラブに入部した長太郎の作った料理を食べた信彦が食中毒を起こし、お料理クラブが廃部になる危機になりました。

実は長太郎とまゆみちゃんが仲良くクラブ活動をしているのを嫉妬した信彦が長太郎が食べている料理を長太郎が作ったものだと勘違いして自分から食べてしまい、長太郎を陥れるために食中毒をでっちあげたのです。

信彦が食べたのはクラブの終わりにまゆみちゃんが作ったシチューを長太郎にタッパに入れて渡したもので、信彦が食べたのはまゆみちゃんの作ったシチュー。

信彦はそうとも知らずに、長太郎が作ったと思い込み、予想に反して美味しいシチューを「まずい、まずい」と言いながら全部食べてしまって、悔し紛れに長太郎に無理やりに食べさせられて、お腹を壊したと嘘の報告を広田先生とまゆみちゃんのお父さんの春日教頭先生に話したのでした。

その嘘の報告を聞いた広田先生と春日教頭先生とまゆみちゃんが桜間家にきて、信彦の食中毒を報告し、例によって長太郎は父ちゃんに張り倒されてしまいます。

長太郎は信彦の嘘を言おうとしますが、まゆみちゃんがその場にいた為に、まゆみちゃんの作ったシチューを信彦が食べたということを話すことが出来ません。

長太郎はまゆみちゃんのために口をつぐみます。

まゆみちゃんは長太郎のそんな様子と長太郎がクラブの時間に自分で作って失敗した料理をドン平の餌にしていたのを見て、信彦が食べた料理が自分が長太郎にあげたシチューだということを察します。

現実の理不尽さを味わう長太郎

本来の長太郎ならば、自分に身に覚えのないことで責められたり、怒られたりすると無実を主張して反論しますが、今回はまゆみちゃんのせいにされるくらいならと、自分の無実を主張しません。

この自分に反論するだけのものがあっても、約束したから、人のためにと、自分がいいように言われた悔しさや、疑われた悔しさ、理不尽さを押し殺して、本来の自分の主張を出来ない悔しさに耐える長太郎の姿を市川さんは書いています。

それは、市川さんが初めて『あばれはっちゃく』の脚本を書いたときに原作を読んで自分なりに長太郎像を読み取り、その読み取った長太郎を核として、ドラマの脚本を書いたから、シリーズが新しくなっていっても、その核になる長太郎像をぶれることなく、最初のドラマで書いた長太郎を書いてきたのではないか、その長太郎像を必ず各シリーズの自分が担当する初期の方に書いていたのではと思ったのです。

市川さんが2代目『男!あばれはっちゃく』で最初に書いた話は6話ですが、この6話も長太郎が正しいことだけを主張すれば解決というのではなく、和尚さんの優しさに合わせて、本当のことだけを追求するのが必ずしも解決に結びつかないという長太郎にとって理不尽な形での決着でした。

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こうした割り切れない綺麗ごとだけでは片付かない、すっきりしないモヤモヤを長太郎に体験させるのが市川さんの脚本から私は感じ取れます。

4代目『痛快あばれはっちゃく』4話で市川さんの話を見たときに、市川さんは長太郎に常に割り切れない悔しさを体験させ、現実がなんでも自分の思い通りにならない、妥協点を見つけないといけないという話を作ることを念頭に置いて『あばれはっちゃく』を書いていたんだなって思うのです。

それは、市川さんが原作の『あばれはっちゃく』から読み取った長太郎像であり、作品世界だったのだと思います。

現実はなんでも子どもの思う通りにはならない、子どもは大人の都合に振り回される、その理不尽に耐えなければならないということは、原作を読むと確かに感じ取れます。原作のみに登場する苫村清二が長太郎に言う言葉の中に、子どもの力だけではどうにもならない現実があることを伝え、早く大人になることという言葉があります。

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だからこそ、市川さんはどうにもならない悔しさ、耐える辛さを長太郎に経験させる話を書いてきたのだろうと思います。

それでいて、最後に長太郎にその耐えただけの褒美を与えています。

初代はヒトミちゃんの誤解が解け、クラスメイト達から理解され、2代目では和尚さんや父ちゃんから理解され(6話)、みゆきちゃん、カヨちゃん、邦彦、ゆかりさんには理解され(9話)、4代目もまゆみちゃんが分かってくれて、信彦も最終的に自分の非を公に認めました。

書いている途中で思い出しましたが、信彦が自分の非を認めたのは、原作の正彦が長太郎に謝ったことと重なります。

完全に長太郎の思い通りの解決にはならないのですが、長太郎が耐え忍んだだけの救いがあるのは、辛い現実と100点ではなくても80点くらいの報いはあるというのが、児童ドラマとしてのバランスを保っているように思いました。

3代目と5代目もみかえしてみよう

今回はディスクのチェックを兼ねて4代目を1話から7話まで見ましたが、それで市川さんが原作の『あばれはっちゃく』から何を読み取り、ドラマの脚本に生かしてきたのかを感じ取れました。

それは、きっと今回取り上げた初代、2代目、4代目だけでなく3代目、5代目でも書かれているはずなので、また、改めて市川さんの脚本に注目して見ていきたいと思います。

今回は、こんなところです。