柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

山際永三監督インタビュー2014(3)

――山際監督は『はっちゃく』シリーズ第一弾の『俺はあばれはっちゃく(1979年 テレビ朝日)』でほぼ半分の話数(23本)をお撮りになられて、続けて次の『男!あばれはっちゃく(1980年 テレビ朝日)』でも、第2クールまでで(第14話まで8本)をお撮りになられました。しかしその後はそのまま秋から、西田敏行さん主演の学園ドラマ『サンキュー先生(1980年 テレビ朝日)』の方へスピンオフしていくわけです。

山際・あれは落合(兼武 テレビ朝日プロデューサー)さんが『サンキュー先生』もやってたからですね。落合さんがやってくれっていうから、僕は移っちゃったわけですよ。ある意味じゃ「あ、チャンスだ」と思って(笑)

――山際監督としては、『はっちゃく』をこのまま続けるよりは、『サンキュー先生』の方が企画としては面白いと思われたわけですか。

山際・そりゃぁもう。西田(敏行)さんとやれるっていうのはうれしかった。

――『サンキュー先生』でも、ゲストで吉田友紀(『俺はあばれはっちゃく』桜間長太郎役)さんがゲスト出演されているんですよね。

山際・あぁ吉田さんは確かに出てくれていましたね。僕が監督した話でしたっけ?

――第23話『光と影の道を走れ(脚本 寺田隆生)』で、山際監督がメガホンを執られています。

山際・あぁそうでしたね。思い出しました。

――山際監督の中でも、初代長太郎の吉田さんと、二代目長太郎の栗又さんというのは、いろいろ違って受け止められていたわけですか?

山際・そりゃあ全然違う。まぁ僕は栗又さんを弁護して「ああいうのがいてもいいんじゃないか」とは言ってたんだけれども(笑) 全然違うんですね。「筋肉」が違うよね。

――山中恒氏原作小説『あばれはっちゃく』本文内での描写のイメージからすると、栗又厚さんの長太郎が一番作中主人公像に近いのではないかという意見も目にするのですが。

山際・あぁそうかもしれない。でも吉田さんっていうのは凄いんですよね。あれは僕が考え出したんだけれども、(オープニングで)タンゴの音楽をバックにタイトルバックで踊るというね。あれを吉田さんが踊りをやってね。あぁいかにもあばれはっちゃくだっていう感じがね、もうあのタイトルバックは大成功だったんですよ。あれは最初(第1話)からあったんでしたっけ?

――はい、シリーズ開始から第30話までタンゴのオープニングが使われていました。国際放映のスタジオで撮影されたと、吉田友紀さんがインタビューで語られておりました。最初はタキシードを着て薔薇を口にくわえて踊っていたのが、だんだん曲が進むにつれ脱ぎ始めて、最後は上半身裸にまでなってしまうという。あのコンテというか撮影プランは山際監督が手掛けられたのですか?

山際・あれは確か僕がやったんですよ。別に何かからヒントを得たわけでもないんだけど、あ、こりゃタンゴがいいなっていうのはね、吉田さんを見ているとそういうアイディアが出てくるという、吉田さんはそういう少年だったんです。吉田さんというのは、みんなからチヤホヤされるのはいやがるしね、何か変に生真面目なところがあるんですよ。だけどね、ああいうのをやってくれっていうと、彼は恥ずかしがっているようなところもあるんだけれど、(本番になると)平気でやっちゃうんですね。それが素晴らしいんです。

――山際監督がいくつもの作品で、常に表現しようとし続けていた「生命力」「バイタリティ」「活力」みたいなものが、吉田友紀さんという役者にはあったのかなと思ってみたりしました。例えば第32話『あばれ子守唄マルヒ作戦』では、吉田さんが演じる長太郎が大福の大食いに挑戦するシーンがありますが、あれはやはりリハーサルの時から、全力で吉田さんは食べていたのですか?

山際・いや、テスト(リハーサル)からそんな無理して食べさせたことはないよ(笑) そんな酷いことはしない(笑) 僕がやってた『帰ってきたウルトラマン(1971年 TBS)』から『俺はあばれはっちゃく』の時代は小学校高学年、テレビを観るのもそれくらいの年齢の子達で、撮る側も芝居的にも面白かったですね。ところがそれ以後の(『サンキュー先生』の頃の)高学年の子になったりすると、全然面白くないんですよ。っていうのは、自分がもう子役からテレビ役者になろうとして、悪い意味でプロ意識を持っちゃったのね。だんだん、テレビに出ることで、フィクションの中で自分の能力を出すということが、低年齢化してきたのが80年代だったんですよ。現代でもそういう傾向はみられるんですけどね、今テレビによく出ている芦田愛菜っていうあの子はね、小さい時はもっと素晴らしかったんですよ。最近の彼女は「作られた芝居」をするようになったよね。だから子役っていうのは、低年齢の時に素晴らしい才能を出した人が、やっぱり慣れてくるとどんどんつまらなくなる。大人になっても「作られた演技」と「自分の生の演技を反省しながら上手く自分の中でやっていける人」と、二種類いるんでしょうね。

――そういう意味で『俺はあばれはっちゃく』において島田歌穂さんや早瀬優香子さんのような、思春期前後の女の子俳優さん達は、扱いにくいところがあったのかなとも思うのですが。

山際・いや、扱いにくいということはなかったんですが。つまり「ああいう役」をやってくれりゃぁいいわけで。

――島田さんは当時、子役としてもベテランで、芸達者でいらっしゃいましたよね。

山際・いや、それがね。『俺はあばれはっちゃく』の頃までは、全然素人っぽい人でしたよ。だから、役者っていうのは素人っぽい人が大成する事もあるわけ。だから島田さんもあの頃は全然素人っぽかったですよ。だけど「こうやって(演技を)やるんだ」って言うと一生懸命やってましたよ。それこそ「お姉さんがヒステリーを起こすように怒るんだ」って言う(演技指導する)と、なかなか(島田さんが演技で)怒れないんだよね(笑) (島田さんは)お嬢さんだからね、なかなか出来ないんだけれど、少しずつ出来るようになりましたよ。だから、その後彼女は舞台やなんかで大活躍してるでしょう? 時々会うと恥ずかしそうな顔をしていますよ(笑)

――劇中でのてるほ(島田歌穂)と長太郎(吉田友紀)との喧嘩やヒステリーは、完成作品では自然な物に見えていましたけど、吉田さんも島田さんも相当苦労なされて演技していたんですね。

山際・その頃はね。(喧嘩を派手に)もっとやったらいいのに、と思うところはありましたよ。だけど東野(英心 父親役)さんとお母さん(久里千春)のコンビも非常に良かったもんで、みんなが東野さんなんかに教えられたんですね。

――東野さんも久里さんも、当然あの時点でキャリアはあられる人ですね。

山際・僕と東野さんもね、相当古くからいろんなことやったんですよ。それこそね、東映の京都で時代劇(『彦左と一心太助(1969年 TBS 脚本 市川森一ほか)』)なんかやってた時に東野さんが来てくれて、俳優座出身には珍しく、いろんな理屈を言わずなんでもはいはいって言ってやってくれる人で。僕は本当にああいう人が大好きで。

――東野さんの著書『クラブと恋と夢(1982年発行 民衆社)』の中でこんな記述がありました。「今の役者という仕事に生きがいを見つけてきた僕は、僕達のつぎに育ってくる子ども達と一緒に、もう一度生きてみよう、その願いを持って『あばれはっちゃく!』という番組の出演を希望した。希望してみたものの、最初の配役決定の時には“東野英心には出来ない。彼ではドラマが面白くならない”というようなことで不合格になってしまった。(中略)僕という人間は余程のダメ人間なのかと考え始めた頃、どういう理由か分からないが、ふたたび『あばれはっちゃく!』の父親の役の話が舞い戻って来たのだ」この記述に関して、山際監督は何かお心当たりはありますか?

山際・いや、僕は記憶はないけど、(その話は)なんか聞いたような気がしないでもないですね。もしかすると、東野さんがそういう思い込みをしたり、あるいはマネージャーが(役が断られた時に東野氏に対して)そういう説得の仕方をしたのかもしれない。(父親役には)別の候補者がいたかもしれませんけど、「やっぱり東野さんがいいじゃないか」って、僕が言いだしたような気もします。だから(父親役が一度他の人に)決まっちゃってて、その後また東野さんになったっていうわけじゃないですね。いろいろな候補がいる中で、東野さん以外の人も、候補になっていたかもしれないですけれども。もう、東野さんに決まってからは「東野さん以外には考えられない」っていう風になってね。(『あばれはっちゃく』シリーズの)最後まで東野さんでしょう? それ(著書の記述)は、ちょっとただ東野さんがそう思ってるだけですよ。たいした問題じゃない。

――東野さんはとても巧い俳優さんでしたよね。

山際・巧いですよ。ツボを心得てる役者さんでした。

――そういえば、ヒトミちゃんを演じられた早瀬優香子さんが、『俺はあばれはっちゃく』の後年、若松孝二監督の映画『キスより簡単(1981年)』に主演されたんですよね。

山際・あぁ、裸になったっていう。聞いたことは聞いたけど、観なかった(笑)

――以前、山際監督がインタビューでこう仰っていました。「結局、九重佑三子版の『コメットさん(1967年 TBS)』をやった僕としては、大場久美子の『コメットさん(1978年 TBS)』が嫌なんですけどね。本来コメットさんは『宇宙の学校の落第生』それでコメットさんが下宿する家の二人の男の子は『地球の小学校の落第生』で勉強が大嫌いという。これが主人公だったところがいいところでね」と。そういう意味では『俺はあばれはっちゃく』の桜間長太郎も、やはり劇中ではあきらかに落第生なわけです。若松監督や大島渚監督のような政治性ではない形で「体制や優等生的な物に対する、バイタリティ・生命力の反骨」みたいなものを、山際監督はコメットさんや長太郎的な人物像で描こうとされていたのかなと思ったりもしています。

山際・もちろん僕は政治的な考えも、学生時代から持ち続けてはきたんだけれども。その後慶応で友達が出来、新東宝で友達が出来、で、国際放映から本格的に監督をやりだして、その時代、その時代の中で僕なんかは影響を受けてきましたよね、いろんな影響を。だけどまぁ若松さんなんかと、共通の時代を生きたっていう思いはあるんだけど、特に同志的に何かやってたわけでもないんです。ただまぁ子ども番組って意味では、佐々木守さんとは同志的な繋がりがあったかとは思いますけれどもね。

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