柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

山際永三監督インタビュー2014(2)

――『俺はあばれはっちゃく(1979年 テレビ朝日)』に関して今思う時、合体ロボもヒーローも宇宙人も魔法も出てこない、スポンサーが玩具も売れないような子ども向けドラマが、あの枠で視聴率20%を越えたというのは凄いことですよね。

山際・不思議だよね。だからそれは、山中恒原作の疑似恋愛的な物と、やはり吉田(友紀)さんが非常に筋肉がしっかり出来ている子どもで、単なる「ガキ大将」ではなく、筋肉質でなかなか飛び跳ねても怪我しないみたいなね、そういう見るからに良い少年という、そういった部分があったんでしょうね。それからホン(脚本)作りの楽しさみたいな要素が、上手く合体したんですね。僕なんかが思ってたより視聴率が良かったんですよ。

――『俺はあばれはっちゃく』では、メインライターは当初、山根優一朗さんでしたよね。

山際・山根さんは最初の頃メインでいましたけど、あの人は松竹出身で助監督もやってた人だったんだけど、非常にまじめな方でね、ああいう喜劇的なふざけた事は、なかなか書きにくい人なんですよ。だから真面目になりすぎちゃって。第1話(『猛犬退治マルヒ作戦(脚本 山根優一朗 監督 山際永三)』)は山根さんでしたっけ? 犬をけしかけて子ども達をいじめるお爺さんみたいなのが出てきたのを、まともに批判するような作りでね、嫌なお爺さんをやっつけろ!みたいなね。それじゃ喜劇的な要素がないんですよ(笑) 僕なんか、もうちょっとなんとか面白くならないかなとか思ったぐらいに、山根さんはある意味で不器用な人でしたよ。その後、たぐっちゃん(脚本家 田口成光)が入ってきたり、市川靖さんが入ってきたり。彼はもう亡くなっちゃったのかな。市川(靖)さんも、最初はまだ全然学生気分の人で、鍛冶さんが引っ張ってきた人なんだけど。ところが非常に素直に、僕らの言う事を消化してくれましてね。僕が好きなのはね、漫画家の紅理子さんが出てくる話(第52話『恐怖の劇画だマルヒ作戦(脚本 市川靖 監督 山際永三)』)で。

――その話の撮影に関して、主役・桜間長太郎役の吉田友紀さんがDVDのブックレット(ジェネオン エンタテインメント(株)『俺はあばれはっちゃく』DVD-BOX2』収録)のインタビューで「富士急ハイランドのロケで沈みかけているボートにいる女の子を助けるシーンがあったんです。ドラム缶の桟橋をボート代わりにして助けに行くときに、女の子2人が同時に体重をかけたんでそのままオレ落っこっちゃって(笑)。それで落ちた先がボートの縁で、縁をつかんだらボートがひっくり返っちゃったんです。それで、ボートの中に閉じ込められちゃって、中には空気はないし浅いから潜って出られないし、死にかけました(笑)」と答えていたのが印象的です。

山際・死にかけたわけじゃなくて(笑) そんなこともあったかな。これは市川靖さんの喜劇としては、非常に面白かったんですね。今でもDVDが出てから『俺はあばれはっちゃく』は何本かは観たんですけれども、喜劇としてなかなか上手く出来ているなと思って感心しましたよ。

――市川靖さん脚本作品だと、他の監督の作品(第23話『たなばた幽霊マルヒ作戦(脚本 市川靖 監督 松生秀二)』)でも、東野英心さん演ずる父親が、慌てて水を飲むのに花瓶の水をそのまま飲んだシーンとか、かなり無茶なこともやっていました。

山際・馬鹿な事をやってるわけで(笑)

――以前発表された山際永三監督インタビューの中で、監督が渥美清さん主演の『泣いてたまるか(1966年 TBS)』の頃のことに触れられていて、そこでは山際監督は喜劇に関しては、徹底的にスラップスティック志向でやりたかったと。『泣いてたまるか』では真船禎監督と二人で、徹底的にスラップスティックでいこうと決めたのに、肝心の渥美清さんが肺病を患っていたことがあるとかで、身体を動かすのがにがてで、上手くいかなかったという記述がありました。それは『俺はあばれはっちゃく』にも通じる監督の方向性でしたね。

山際・(スラップスティックが)好きだったんですよね。そういうのを自由にやらせてくれただけで嬉しくてね。長太郎(吉田友紀氏演じる主人公)が玄関開けて帰ってきてね、ランドセルを放り投げるとね、ぴゅーっと飛んでいって自分の部屋に入るというあれはね、ピアノ線による操演で撮ったんですけどね。まぁああいう馬鹿馬鹿しいことが出来たという。まぁピアノ線を使ってびっくりさせる撮り方なんてものは、僕は『コメットさん(1967年 TBS)』とかでさんざんやってきたんですよ。なのでそういうのは上手くいったわけですね。

――『男!あばれはっちゃく(1980年 テレビ朝日)』主役の栗又厚さんの雑誌でのインタビューや、『痛快あばれはっちゃく(1983年 テレビ朝日)』でヒロインを演じた水沢真子さんが『おかあさんのつうしんぼ(1982年 テレビ朝日 脚本 田口成光 監督 山際永三)』に関してブログで書かれていた記事を読むと、山際監督は子役に対して、話の流れだけ覚えていれば、台詞は正確に覚えて来なくてもいいんだと。そういう指導をされていたと伺ったんですが。

山際・子どもに台詞を暗記しろって言ったって、ロクな事になりゃしないんだし(笑) また、そんな長い台詞があるわけじゃないからね。現場で僕が口で台詞を言えば、それを口真似で言ってくれればいいわけであって、台詞を覚えるなんて必要はなかったんですよ。それはもう、ゲストの他の子ども達にも僕はよく言っていたし。本当に長くて必要な台詞で、どうしても言ってもらわなきゃ困るんだって時には、覚えてくれっていうのは言ったかもしれないんだけれども。まず、一行、二行の台詞で、子どもに暗記させる必要はないですよね。だから、台本に書いてある活字どおりではない方がいいし、子どもが言いたいように言ってくれればいいんだし。

――台詞をある程度自由にしゃべっても良いということは、『俺はあばれはっちゃく』は音声は同録だったのでしょうか。

山際・『俺はあばれはっちゃく』は同時録音でしたね。同録です。「トラさん」って呼ばれてた録音部の笠原虎雄さんが、非常に子ども好きでねぇ。僕らの知らないところで、子ども達を上手く可愛がってくれて。確かロケでも同録で撮っていたんじゃないでしょうかね。『あばれはっちゃく』は同窓会があって、これまでに二回ぐらい僕は出たんですけれどもね。五代目(『逆転あばれはっちゃく(1985年 テレビ朝日)』)の酒井さんがいろいろ段取りしてくれたりしたんですけれども。その同窓会で僕はつくづく言ったんだけれども、『あばれはっちゃく』というのは、16mmフィルムで作るテレビ映画が、技術的にも予算効率的にも、一番上手くいった作品の一つなんだと。それまでは各社、テレビ映画の造り方というのは、滅茶苦茶だったんですよ。ところが国際放映は、作品数をたくさんやってきただけにノウハウの蓄積もあったんです。『俺はあばれはっちゃく』では、録音も外国製のNAGRA(TYPE-3)っていう、5インチのオープンリールを使ってたんです。昔の映画では(カメラの前で)カチンコをカチンとやって撮影して、後で仕上がってきたフィルムと音声のタイミングを合わせたわけですよね。今のVTR撮影もそうなんだけど、絵と音を別々にとってるわけですよね。それをみんな素人はわかんないからね。映画っていうのはカメラさえ回せば、絵も音も同時にとれると思っちゃってる。(実際の撮影現場では、カメラとは別に)マイクをもっと(俳優に)近づけて、別にとらなければダメなんですよね。それをシンクロさせて合わせるにはどうするのかというと。もちろんカチンコもなんだけど、NAGRAっていうのは6mmのテープのオープンリールだから、(フィルムとのシンクロ用の)穴は空いてないんですよ。モーターの微妙な回転の力で速度が変わるんですよね。カメラの方はアリフレックス(16mmフィルムカメラ)っていうのを使っていたんだけれども、これだってバッテリーで動かしている時には、正確に1秒24コマで回ってるかどうかは微妙なんです。ほんの少しでも狂ったら(画像と音声のタイミングが)狂っちゃうからね。で、アリフレックスから出てくる信号を、なんだかNAGRAの方に送ると同期するんですよね。この、NAGRAとアリフレックスがシンクロするっていうシステムは、多分日本の16mmを使うテレビ映画(の技術屋)が編み出したんですよね。これが技術的にバッチリなんですよ。それで6mmのオープンリールをリーレコ(整音)って言ってもう一回転写する時は、16mmのフィルムと同じ形の磁気テープ(シネテープ)に転写すると、編集をしても狂わないんですよ。この技術をはじめいろんなことが、スタッフの人数とか役割とか、そういうものも含めて様々な要素が頂点に達していた時期が『俺はあばれはっちゃく』の時期なんだという。その後、僕が東映で水沢(真子 女優)さんなんかとやった『ハウスこども傑作シリーズ(1982年 テレビ朝日 『宿題引き受け株式会社』『おかあさんのつうしんぼ』他)』)とか『ちびっ子かあちゃん(1983年 TBS 脚本 田口成光)』とかになるとね、東映とかは助監督が監督の言う事を聞かないわけですよ(笑) で、監督に「明日は野球場のシーンがあるから、エキストラもせめて30人とか呼ばなきゃダメだね」って言われて「ハイ!」とか言っておきながら、(いざ当日になると)10人とかしか呼ばないわけです。そうやって(助監督判断で予算やスケジュールを勝手に軽減するとかして)いかないと、会社から覚え目出度い助監督だって言われないからなんですよ。次に仕事をくれないわけですよ。まぁそんな時代になっちゃった。僕らが国際放映で、新東宝以来先輩ぶってやってきた時期の監督と助監督の関係なんて、僕の為に本当に、こうしようああしようとかがんばってくれた助監督とか大勢いたんだけれども。それとは違って東映とかでの最後の頃はもうどうしようもないなと。助監督が監督を裏切るようじゃ、もうやってられないなぁと(笑)

――東映は70年代に大規模ロックアウト騒動があって、そこで会社側と労使側で協定が結ばれて、現場での予算やスケジュールに関しては、かなり細かい取り決めが行われたと聞きます。その結果、その取り決めを守るスタッフが優遇されていった流れがあるのではないでしょうか。

山際・もちろんそういうことはあって。それはもう大映テレビにしても国際放映にしても、全部そうなっちゃった。だからそれがちょうど、80年代に入ってからですよね。テレビ自体がそういう傾向になっちゃったからどうしようもない。

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