柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

常識(ドラマを見て分かる設定36)

 長太郎はあばれはっちゃくとして、一見、自由にやりたいようにやっているように見えるが、他人からは非常識に見える行動をしている長太郎でもちゃんとやってはいけないという常識といか基準は持っていた。その常識を弁えない人物に対しては怒ったりしていた。

「いいか、世の中にはな、常識ってもんがあるんだよ!常識ってもんが」(『俺はあばれはっちゃく』第36話より)

 前にも書いたが、大抵そうして長太郎が怒る時は長太郎よりも無茶な人物が登場した時で(第8話、第28話、第36話、第47話、第51話等)こうした時は長太郎が大人しく見えて物足りなく感じたりもした。それは、作り手の方で一種の突っ込みの要素として作ったものだったのだと思う。

 長太郎は人として不快な事、自分の心の中ですっきり出来ない事に対しては猛反発していた。そうした事が出来たのはある意味子供の特権だったかもしれない。大人のように変なしがらみにとらわれる事もなく、自由に出来て、更に「子どもだから」と大目に見てもらえる立場。

 それが、人にとって(特に大人)は、厄介で掘り起こしたくない事だったりすると、長太郎を疎ましく思っていたのではないか?と思う。(しかし長太郎は早合点の所があり、それで誤解して正彦を殴ったり(第5話)、てるほに恥をかかせたり(第50話)した事もあった)

 だが、長太郎も年下を相手にすると常識という枠を増やしていたりしたのではないか?と思う。それでも、やはり最後の最後、人して越えてはいけない一線だけは絶対に譲る事はなかったと思う。初代あばれはっちゃくの長太郎が実在していたら、今年で42歳になるが彼はどんな大人になっていったのだろう?

ある意味長太郎の生き方はあくまで理想であり夢なのかもしれない。『俺はあばれはっちゃく』第33話で佐々木先生が言う。

「長太郎君は私の理想の生き方をしているのかもしれません」

 その理想的な生き方は長太郎の意志だけでなく、周りもそれを受け入れ容認する度量がなければ成立しない。
中にはそれを許されるキャラクターを持つ人もいるが、その許されるという基準も人の気持ちというあやふやなものに左右される不確定なもので、やはり、生活していくには自分の中の常識に加えて一般的な常識も超えないようにしていくのではないか?と思ってしまう。

そうなったら長太郎はもはや「あばれはっちゃく」とは言えなくなるのだろうか?そうだとしたら寂しい。長太郎が「あばれはっちゃく」なまま生きられる世の中だといいなぁ。せめて、架空の世界の中だけでも。

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