柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

それは本当に自分の考えなのか?

 私にとってケンちゃんというと『ケンちゃんチャコちゃん』のケンちゃんの岡さんで、初代の宮脇さんではない。初代のケンちゃんが出ている作品は一度も見た事がなく、私は彼に対して思い出というのがない。

 あるとすれば、時々テレビで見た『あの人は今』で紹介されていた人というもので、これも既に思い出の世界の話だから、思い出と言えば思い出の中の人だけど。これを見ながら、子役でちやほやされて自惚れた成れの果ての姿か…。と子供心にこの宮脇さんに対して妙に冷めた目で見ていた事を思い出す。

 宮脇さんは傲慢で金に物を言わせてやりたい放題な事をした挙句、落ちぶれた子役として私の中に記憶されていた。しかし、最近になって「ぼくらが子役だった頃」の四方晴美さんの話や斎藤浩子さんのブログ等、当時宮脇さんと同じ時代に子役だった人の話を読んだりすると、どうも、私が今までテレビで紹介されてきた宮脇さんとは別の宮脇さんの印象を受ける。

 2人とも宮脇さんの事を悪く言ってない。確かに同じ子役でありながら、別格な扱いを受けていたという印象を持ってはいたようだが、嫌な人物として記憶してないという印象を受ける。考えてみると、私が宮脇さんに対して持ったイメージはテレビの紹介で後から、「こういう子だった」という大人の証言で伝聞の形だった。

 私は宮脇さんのケンちゃんを知らず、思い入れもなく、当然、彼自身の事も知らないから、その話をそのまま鵜呑みにした。しかし、鵜呑みにしたケンちゃんの人物像は本当にケンちゃんの姿だったのだろうか?勿論、出来事や事件は本当の事かもしれないが、ケンちゃんの人格を見た時、その人格は話す人達の主観が入っていなかったか?人から聞いた話だけで宮脇さんという人物を分かったと思っていなかったか?

 同じ人物、同じ出来事でも、違う人が見れば、また宮脇さんを知る人が見れば、また印象が変わったりしないか?私がもし第三者の言葉を必要とせず、直接、宮脇さんという人物を自分の目を通して見ていたら、彼に対する評価も違ってくるのではないか?と考えるようになった。

 穿った見方になるが、ある人がこの出来事をこういうふうに人に思わせたいと考えて自分の考えに相手を誘導することはないか?他人の意見を入れず、出来事だけを見て自分の気持ちや考えを決めてはいなかったように思う。

 新聞やテレビ、ネットのニュースなどでも誰かのこういうふうに考えを誘導したいという意思があるのではないか、その誘導に乗ってそれを自分の考えだと思ったり、正しい事と思いこんでしまうのは実は危ない事なのではないか?と最近思うようになった。

 この日記とて私が私の考えに沿って書き、読み手を誘導している(私ごときの誘導に乗る人などいないと思うが)いろんな情報が氾濫し、誰かが意図的に、または無意識に、悪気なく自分が考える方へ相手を巻き込んでいろんな情報を発信することが多くなった。

 人の噂や話は参考程度にとどめ、自分の目で見て体験し感じた事を判断基準にして人や物を見ていった方がいいような気がする。もしかしたら、隠されたところに真実や良いところがあってそれを見逃しているかもしれないから。