柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

誰だったか

 多分、手塚治虫先生だったと思うけど、キャラクターを役者としてとらえ、色んな作品で役を演じるのを楽しむという事を言ったような気がする。
最近、その楽しみ方が少し分かったような気がする。同じ人物でありながら全くの別人。同じ人間同士でありながら、違う人間関係が生まれる面白さ。前の作品と現在、過去の作品との繋がりを知ることによって、作品を超えて楽しむ面白さ。

 時代ごとにドラマや作品の常連役者がいてお馴染み過ぎると飽きも出てくるけれど、その時代を映し出す。時代が変わって自分の好みと合わなくなることもあるけれど。今はCSの放送やDVDで見る事が出来るからいい。
でも、漫画と現実のドラマで違うのは、漫画のキャラクターの年齢が変幻自在なのに対して、ドラマの役者は年を取って死んでしまう事。役者に年齢はないというけれど、あの時のあの年齢のままの役者を使いたいと思っても、それは出来ない。

 当たり前の事だけど、なんか寂しい。しかし、永遠に成長しない漫画のキャラクターもまた悲しい。現実の人間が演じていたとしても、演じた人物はこの世にはいない。
例えば、吉田友紀さんが演じた次郎も、あきらも、智之も、新太も、長太郎も彼らには未来がない。成長し大人になる事は決してない。吉田さんが大人になったとしても、それは吉田友紀という人物が大人になっただけで、次郎やあきらや智之や新太や長太郎の成長した姿ではない。彼らはあの一時期だけに存在した人物で煙のような架空の人達。

 ドラマが終わった後でもドラマの世界の彼らの時間は続いていると思う。彼らが死ぬまで。それを私達はもう見れないだけだと思う一方で、彼らの世界は私達が見たときから見るまでの時間の中しかないのだとも思う。
実際の人物が演じているから現実感を感じるのに、相反する感覚も感じるのが不思議にも思う。