柿の葉日記

主にドラマ『あばれはっちゃく』について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

母ちゃんと父ちゃん

アバンタイトル

金髪の鬘をつけドレスを着たヒトミちゃんが、ジュリエットになり、あの有名なセリフを喋っているところへ、鬘をつけた公一、正彦がきて、そして本命の長太郎のロミオが登場。

だけど…

本編

長太郎が学校から帰ってくると、母ちゃんがため息。いつも、元気に迎えてくれる母ちゃんの様子がおかしいです。

母ちゃんの主役の話の脚本は唯一の女性脚本家三宅直子さんと監督は川島啓志監督です。

専業主婦の母ちゃんは、自分とドンペイを重ねています。

そこへ、てるほが帰ってきて、母ちゃんに高校の同窓会のことを切り出します。

てるほが来ても、母ちゃんは落ち込んでいて、いつもとは違います。

家事の心配をする母ちゃんに、てるほが自分がいると母ちゃんを送り出すのですが、その途中で配達途中の公一母子と会っても母ちゃんは元気がなく、長太郎が様子を伝え、公一の母親も母ちゃんにクラス会で羽を伸ばすようにとアドバイスします。

気持ちが塞ぎこんでいた母ちゃんですが、高校時代のクラス会の会場になったカラオケの場で、合唱部の頃の素敵な歌声を聞かせてと言われて、大好きな歌を熱唱。

母ちゃんが歌がうまいのは、母ちゃん役の久里さんがオペラ歌手を目指していた方だから。

ちなみに、母ちゃんが合唱部だと分かるのは、この話の前、49話で50話の予告をした時に、ディスクジョッキー風に喋るてるほの後ろに来て、家族に合唱部だったことを明かしている予告で判明しています。

49話は予告も含めて、脚本は田口成光さん、50話は山根優一郎さんです。

この予告と、久里さんの経歴も踏まえての今回の母ちゃんの話になったのかなって思います。

母ちゃんの帰りが遅くて、父ちゃんは怒っていて、母ちゃんがご機嫌で帰ってきて、友達のとこで働いていいかと父ちゃんに聞きますが、父ちゃんは母ちゃんに家庭で自分達を迎える側にいて欲しいと反対します。

この話だけでなく、父ちゃんは母ちゃんに家庭にいて欲しいという願望が大きかったです。

それは、44話の女詐欺師が出てきた同じく三宅直子さんの話でも書かれています。

専業主婦としての仕事を優先させて欲しいという父ちゃんの気持ちを汲んで、自分のやりたいことを我慢する母ちゃん。

父ちゃんの妻になり、主婦になり、母親になって、自分の為よりも父ちゃん、家庭、子ども達の為に生きるようになって、それに対して生きることに疑問を持たずに母ちゃんは元気にいましたが、ここにきて母ちゃんが自分は何のために生きているのかと悩みだすのです。

母ちゃんが父ちゃんに仕事をすることを反対されたので、長太郎は母ちゃんにママコーラスのことを教えて、ママコーラスをさせますが、やはりここでも問題は父ちゃん。

公一の母親も誘われますが、公一の家は母子家庭の八百屋。

公一の母親は、笑いながらいいます。

「父ちゃんがいればね」 

 父ちゃんをどう説得するか?しかし、父ちゃんの考えは変わりません。仕事ではなく、趣味なんてと。

母ちゃんがママさんコーラスに参加している間に、父ちゃんがデパートの屋上で寒い中働いている場面があるのですが、この場面は2話で長太郎が父ちゃんが怒られながら、上司の正彦の父親に怒られている場所と同じで、2話で長太郎が父ちゃんの働く大変さを知る場面と重なります。

1979年に始まって1年近くで、父ちゃんの働く大変な場面を知る2話とこの最終回ちかくの54話で同じ父ちゃんの働く場面を持ってくることで、てるほ曰く、年中無休で働いている母ちゃんに対する息抜きであるママさんコーラスを反対する父ちゃんに説得力をもたせているのですが、専業主婦は息抜きも許されないという父ちゃんの考えに、長太郎もてるほも激しく父ちゃんに反発します。

今、思うと母ちゃんは軽い鬱状態だったのかもしれません。

父ちゃんが働いているからこそ、生活が出来るという母ちゃんの考えと、父ちゃんがいても母ちゃんが好きなことも出来ないのならいない方がいいという長太郎とてるほ。

これは、公一の家と比べているのですね。

母ちゃんの夫で、子ども達の親である自分が稼ぐから、その代わり自分を支えて欲しいという父ちゃんの願望。

外に出て大変なことは自分が引き受けて、家を守っているという父ちゃんのプライドがあるのでしょう。

けれども、それは母ちゃんをがんじがらめにしていること。

でも、母ちゃんはその前に一人の人間。桜間和子なのです。

てるほと長太郎に責められて、家を出ていく父ちゃん。

この話では、父ちゃんの母ちゃんへの依存の高さが見えて、それを長太郎が指摘して父ちゃんを駄々っ子のように言ってしまったのが、父ちゃんの心を傷つけました。

親離れ、子離れとありますが、妻離れというのも家庭の中である程度は必要なのかもしれないと感じました。

家族の自由をある程度認めること。なんでも、妻がいないと何も出来ないのではなく、妻を自由にしてあげる余裕も必要でそうでないと、相手の心が虚しくなってしまう。

父ちゃんは自分が母ちゃんになに不自由のない幸せを与えていると思っていても、母ちゃんはそれに感謝しながらも、どこか空虚を感じていたという、父ちゃんと母ちゃんの幸せに対するズレが今回の母ちゃんの元気のなさ、父ちゃんの母ちゃんの外への仕事、趣味への無理解に繋がったように思えます。

父ちゃんが出ていき、想定外の大事になって、てるほも心配をし、長太郎が閃きを発揮して、父ちゃんと母ちゃんが互いに相手を探し出し、お互いが大切な存在であることを再確認します。

父ちゃんと母ちゃんは、最初の頃はラブラブっぷりを子ども達の前でも見せていて、それは1年間変わらず、仲の良さを見せてくれた夫婦でした。

でも、三宅直子さんの脚本の時には、母ちゃんの日頃の我慢と父ちゃんの考えが今回のように対立することが多くありました。

初代『俺はあばれはっちゃく』の母ちゃんは専業主婦ですが、2代目以降では、仕事を持つようになる(2代目床屋、3代目洋裁屋、4代目クリーニング店、5代目美容室)のも、時代の流れや、この話があってのように感じるのです。

父ちゃんの考えは、今の時代だと母ちゃんに対するDV案件として、Twitterで叩かれそうにも感じるのですが、1年間父ちゃんと母ちゃんを見ていれば、僅かな考えの違いであり、互いを大事にしているのは伝わると思いますし、最後の収まりを見れば、安易に父ちゃんの考えを叩くことはないと思うのですが、最近の傾向を見ていますと、カチンときた言葉や自分の事を刺激する単語に反応して、全体の話の流れを理解することなく、非難する人が多く見られるようなので、この話に書かれた話をちゃんと見てくれるかどうか?不安になってしまいます。

1980年代、当時でもそんな視聴者はいたのでしょうか。

以前、紹介した東野英心さんの自伝の本の中で、『あばれはっちゃく』のこと、父ちゃんのことを東野さんに直接、非難した女性を紹介したので、当時もいたと思うのですが、それでも、その女性は旦那と子どもが好きだから、『あばれはっちゃく』と東野さんを応援すると話されていて、女性は認めなくても、認めて好きな人の存在とその作品や出演者の存在を許しているというのがあって、そんな人達の存在があってこそ、『あばれはっちゃく』は、その時代家庭に、親に、子ども達に受け入れられていたのだと感じました。

父ちゃんと母ちゃんの考えのズレは、現代と放送されていた時代の考えのズレとも言えるのではないかと思います。

父ちゃんが母ちゃんのことを思って、自分よりも母ちゃんを優先する気持ちを選択して、和解、共存が出来て、それを気づかせるのに、長太郎が出した閃きは単純なものですが、充分効果があったように思います。

それぞれの価値観が違っても、相手を尊重して認める大切さもこの話から感じられました。この話もやっぱり、心に残る素敵な話です。