柿の葉日記

主にドラマ『あばれはっちゃく』について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

七夕

アバンタイトル

今回も長太郎が空を目指していくもの、今回は長太郎が今度は風船ガムで空を目指します。

今回のアバンはかなり飛躍していて、長太郎本人も突っ込みをいれています。

本編

1979年7月7日に放送された『俺はあばれはっちゃく』は、七夕にちなんで『たなばた幽霊マル秘作戦』。

父ちゃんがお寿司を買ってくるのを待っていた、長太郎、てるほ、母ちゃんですが、父ちゃんは竹林を酔っぱらって、歌を歌ってご機嫌で歩いて時に幽霊に遭遇して驚き、お土産のお寿司を落として一目散に逃げてしまいます。

てるほが一番、お寿司を期待していたようで、お寿司をあてにしてご飯を半分しか食べてなかったりしたので、食べられなかったことに対してがっかりしてます。

竹林で父ちゃんが目撃した幽霊が今回の七夕と結びついていきます。

さて、皆さんは七夕に願いを書く由来をご存知ですか?

この話では、佐々木先生が授業で七夕も含めた「五節句」について説明をしてくれています。

1月7日は七草、3月3日は桃の節句だ。5月5日は端午の節句、9月9日は重陽節句、ちょっと難しいかな。つまり菊の節句のことだ。そして、7月7日が七夕ということになる。これを五節句と言うんだな。

 この後に、天の川の説明へと繋がってから、七夕の意味を説明します。

彦星と織姫が年に1度のデートをする。この七夕の日に女の子は「裁縫が上手になりますように」と、庭にお香を焚いて五色の短冊に歌を託して、竹につけて立てて願う行事だったんだ。

 調べてみると、この佐々木先生の話してくれた話は本当のことで、合わせて五節句の説明も同じです。

『俺はあばれはっちゃく』の中では、現実の知識もこうして教えてくれます。

七夕に願い事を託すのは、本来は裁縫が得意な織姫にあやかって、裁縫が上手になるようにと願っていたのが、段々とお願いが拡大されていったようです。

長太郎の小学校では、七夕祭りをすることになっていて、クラス単位で七夕飾りをするらしく、その七夕飾りの竹の調達は、ヒトミちゃんの仕事になっていて、七夕の説明をした後で、ヒトミちゃんに竹のことを念押しします。

朝の登校から元気のないヒトミちゃんでしたが、佐々木先生から七夕祭りの竹のことを改めて頼まれて、朝以上に元気が低くなっています。

このヒトミちゃんの変化に気がついたのが、正彦。

正彦と恵子ちゃん、公一でヒトミちゃんの元気のない理由を聞き出します。

ここに、長太郎がいないのが謎です。

ヒトミちゃんの元気がないのは、惚れ込んだ竹林の竹を所有者のおばあさんに譲ってもらおうとお願いをしたら、幽霊退治を以来されたから。

正彦はそれを聞いて、幽霊退治をすると言い出しますが、公一は長太郎に話したほうがいいと呟きます。

この竹林の幽霊退治が父ちゃんの冒頭で見た幽霊と結びついています。

ヒトミちゃん、正彦、恵子ちゃん、公一の4人が幽霊退治に向かう中、桜間家では長太郎が七夕飾りをしている母ちゃんとてるほの邪魔をしています。

長太郎に短冊の願いを読まれた、てるほが怒って

願い事を口に出して言われたら、願いが叶わなくなるんだから! 

 って長太郎に言いますが、この話は私も小さい時に聞いたことがあります。

もしかしたら、4歳の時にこの「たなばた幽霊」の話を見た記憶だったのかもしれません。

願い事を口に出してはいけないっていうのは、最近では知らない人が多いのかなって思うこともあります。

動画サイトなどで、他人の願い事を紹介している人も見かけますから。

もっとも、時代や年代、土地による違いもありますし、願い事が無効になるのも確認のしようがないので、一概にダメなこと、タブーとされているとは言い切れないとも思いますが。

結局、4人では幽霊退治が出来なかったので、長太郎に幽霊騒ぎの話をして、助けを求めにきます。

ここでは、正彦の強がりの言葉がその前の幽霊に驚いた正彦の姿と対比されて、その落差が面白いですね。

竹に拘るヒトミちゃんと、竹にも七夕にも拘らずにいる長太郎。

長太郎は佐々木先生の説明から、七夕が女の子の祭りということで、男の子の自分とは関係ないと考えているので、ヒトミちゃんとの温度差があります。

ヒトミちゃんも頑固で、惚れた竹に拘っていて、その拘りに長太郎が答える形で幽霊退治をかってでます。

七夕祭りのためではなくて、ヒトミちゃんのために動くあたりが長太郎らしいのですが、今回は女の子の祭りと七夕に関心がなくても、ヒトミちゃんに元気がないのに気にしてなかったりと長太郎の行動に少し疑問が残ります。

今の時代なら、七夕を「女の子の祭り」と言って興味を示さない、一歩引いてみている長太郎は、女性差別と言われてしまうかもしれません。

ただ、ここで思うのは長太郎の場合、男女の区別をつけているだけで、女性差別はしてないんじゃないかなってことです。

10話で朝比奈の爺さんが、息子が女性の下着会社に就職したのを快く思ってなかったのを、女性の下着を作る会社がないと、ヒトミちゃんが困るって、朝比奈の爺さんに怒っているように、7話で女の子を襲う痴漢に怒り、退治しているように、女の子、特に好きな女の子は男が守るという考えが長太郎にはあるように思うからです。

人や性別によって担う能力や社会での役割の適材適所があって、男の自分は、元々が女の子が裁縫を願う女の子のためのものだった七夕を男がその領域を侵してはいけないという気持ちから、関心が低かったのではないか?と考えます。

ただ、男の人でも裁縫ができるのには、越したことがないとも思えますが。

男は男らしく、女は女らしく役割を分けることと、性別で仕事を分けることというのは、性差別に繋がりかねない危険があって、男らしい、女らしいも安易に言える社会ではなくなりました。

性別による差別は許されない差別の1つですが、なんでもかんでも男女平等というのもまた違うように思います。

体のつくりも違いますし、人間だからといって誰もの能力が平等に同じにあるとは限らないからです。

この夜に彦星になって織姫のヒトミちゃんと天の川でデートをする夢を見る長太郎。

目が覚めた長太郎が手を股間にやって、「やべぇ」って言うんですけど、この場面、天の川でデート、川、水辺という発想でって考えると、長太郎がおねしょをした場面に見えなくもないのですが、授業で長太郎は天の川の説明を佐々木先生から聞いていて、星の集まりだと知っていますので、夢の中で川で溺れていたとしても、単純に水関連の夢といっていいのかな?って考えてしまいます。

むしろ、1年に1回のデートと浮き浮きしている彦星長太郎が、大好きな織姫のヒトミ姫に会える恋心の嬉しさもあったりするのではないでしょうか?

長太郎は小学5年生なので、精通している可能性もあり、好きな女の子の夢を見ての「夢精」の可能性もないとは言い切れないのです。

ただ、ドラマを見ている限りでは、最初のおねしょ説が有力で、この話でこの長太郎の夢と夢から覚めた後のところは、七夕の話ならではサービスと息抜きの場面で、今回の話の中で、重要ではないのですが、大人になって見返してみて、夢精の可能性もあると見ると、男女の体の区別が生まれてくる小学高学年の男女差を表現していたと思えてくるのです。

そうなると、七夕を女の子の祭りと言っていて、関心がない理由と合わせて、社会での男女の役割による区別と体の仕組みの違いの区別によって、男女が分かれることが出てくるということを伝えているように思います。

幽霊の正体を見破り、幽霊騒動を起こした竹林の持ち主のミハルさんは、度胸のある子どもを探していたことを知った長太郎。

ミハルさんの言葉や求めていた子どもの姿を知ると、この時代の現代っ子に対しての年配者の意識が1話と10話に登場した朝比奈の爺さんに通じていると感じます。

あばれはっちゃく』が1970年~1972年に読売少年少女新聞に連載されてから、26年後に1996年に出版された『あばれはっちゃく』(理論社)には作者の山中恒先生の次の言葉があります。

あばれはっちゃく (山中恒よみもの文庫)

あばれはっちゃく (山中恒よみもの文庫)

 

はじめに‐‐‐作者から

あばれはっちゃく」というのは、手のつけられないあばれものという意味だそうです。知り合いのおばあさんが教えてくれました。そのおばあさんのいなかの方言だそうです。

「そういや、ちかごろはあばれはっちゃくな子どもがいないね。みんなぎょうぎがよくて、モヤシみたいだよ」

 ともいいました。でも、ぼくはそうは思いません。きっと、この物語の主人公・桜間長太郎くんのような「あばれはっちゃく」がみんなさんがたのなかにもいると思います。

この「はじめに」の作者の言葉だけは、1996年に書き足された言葉で、新聞連載の時代、ドラマになっていた時代よりも、ずっと後の時代にも、長太郎のような存在がいると信じて書いた山中先生の言葉だと受け止めました。

ドラマ化されていた時代でも、さらに「あばれはっちゃく」の数が少なくなりつつある時代だったと思いますが、破天荒だけど、義理堅くて、面倒見がよい長太郎の存在や肝が据わった度胸のある子どもの存在のあり方を、行儀がよいだけの人間だけでは足りない部分をドラマも伝えていたように思います。

長太郎が今回、興味がないことで動いたのは、ヒトミちゃんのためで、この話の中では、長太郎のような子どもを求めていたミハルさんのためにも働いてくれます。

長太郎はミハルさんの夫が生前に枯れ井戸へ捨てた物をミハルさんの頼みで、ミハルさんの庭の枯れ井戸の中へ取りに行ったのです。

優しさとともに枯れ井戸へ降りる勇気もある子を探していたんですね。

長太郎は、降りた井戸の中でミハルさんの夫が生前に口にしなかったミハルさんへの感謝を綴った手紙を見つけてきます。

死後に夫の自分への愛情を知ったミハルさんは涙を流します。

ここに夫の男ゆえの見得、意地っ張りな性格が出ていて、この時代の年代の老人が鼻の下を伸ばして妻にデレデレするのが恥ずかしいという長太郎よりも、さらにはっきりした男女の区別をつけていたのが分かります。

長太郎は、そういう男だからと感情を体面や照れで言わないことを、難しくてややこしいと言っていて、男女の区別を持っていながらも、年配の人とはその区別が違うか、緩やかになっているのが伺えます。

織姫と彦星の七夕に合わせて、夫が生きている間は素直に妻に伝えられなかった愛情が伝わったというところで、二人が生と死で分かれても、心が通じ合えて、ミハルさんは夫に心の中で出会えたように思いました。

今回は長太郎とヒトミちゃんが彦星と織姫ではなくて、ミハルさんとその亡くなった夫が織姫と彦星だったのかもしれません。

最後に長太郎がヒトミちゃんへの常日頃の思いを七夕飾りの手作りのくす玉に託して思いをみんなの前で堂々と伝えるところは、ミハルさんの夫との対比があって、同じ女性を愛する男でも、生まれて生きてきた時代の違いによる年配の男性と小学生の男の子の違いが出てるなって思います。

夏、七夕、肝試しと季節を満載に取り入れた今回の話は、男女の違いや役割、現代にも長太郎のような存在が必要で、そういう義理堅い人間が若い世代にはいないと嘆かれても、君たちの世代にも、ひょっとしたら君が長太郎のような存在でいて、そんなに人間捨てたものじゃないんだよってことが詰まっている話だと感じました。