柿の葉日記

主にドラマ『あばれはっちゃく』について語る個人ブログです。

山際永三監督インタビュー2014(1)

9月上旬、ある縁で『俺はあばれはっちゃく(1979年 テレビ朝日)』のメイン監督であり、初期の『男!あばれはっちゃく(1980年 テレビ朝日)』の監督であった山際永三監督とお会いする機会がありました。山際監督は、『あばれはっちゃく』シリーズの初期立ち上げに関しては重要な関係者の一人でもあり、『あばれはっちゃく』シリーズを語り検証していく上では、最も欠かせない方でもあります。
 山際監督は1932年生まれ、大学を卒業後、新東宝という当時の映画会社に入社して、劇場用映画『狂熱の果て(1961年)』でデビューされましたが、その後国際放映になってからは、『チャコちゃん(1966年 TBS)』に代表される『チャコちゃんシリーズ』や『コメットさん(1967年 TBS)』等から、円谷プロの『帰ってきたウルトラマン(1971年 TBS)』『ウルトラマンA(1972年 TBS)』『ウルトラマンタロウ(1973年 TBS)』等の『ウルトラマンシリーズ』を経て、『それ行け!カッチン(1975年 TBS)』『あばれはっちゃくシリーズ』まで、一貫して「子役が登場する子ども向けドラマ」の世界で、自他ともに認める第一人者として活躍され、テレビ界にその名を刻み込んだ、テレビドラマ史の功労者でもあります。
 そんな山際監督とお会いできる機会に恵まれた私が、当日監督の住む地元駅で待っていると、しっかりとした足取りで監督がやってきました。初めてお会いする監督は、そのしっかりとした足取りとその服装から年齢よりも若く見えました。簡単な挨拶と自己紹介をした後、監督の後についてご自宅までいき、応接間に通されすすめられたソファーに腰を降ろすと、お茶が出され監督は向かい側にある椅子に腰を降ろしました。
 プロデューサーの鍛冶さんの事、同じくプロデューサーの落合さんと鍛冶さんが生み出した環境、どのような形で『あばれはっちゃく』が生み出されてきたか、昭和の子役を見つめ続けてきた山際監督から見た吉田友紀さんの印象、様々なの脚本家の方々の話、現場のスタッフの方々の雰囲気作り、『俺はあばれはっちゃく』の初代OPの制作秘話、何故、『あばれはっちゃく』がヒットしたのか等々をお聞きしてきました。
 聞いて見てわかった意外な事実、または、やはりそうだったのかと腑に落ちた部分など、新たな発見、事実の確認をした思いです。『あばれはっちゃく』の制作の裏を知る事で、いかに作り手がプロだったのかという事が分かりました。子役がメインのドラマにおいての、プロデューサーの役割の大きさ、現場での大人が子役をどう扱っていたのかという部分がいかに大切で現場のいい雰囲気が作品を生み出していたかを知る事が出来ました。
 この『柿の葉日記』では、今回から4回に分けて、この山際監督の貴重な証言を紹介していきたいと思います。


――山際監督、今日はお話を聞かせて頂ける機会を頂いてありがとうございます。今回は主に、山際監督がメインで監督を務めた『俺はあばれはっちゃく(1979年 テレビ朝日)』に関して、いろいろお話を伺わせて頂きたいと思います。まず最初にお伺いしたいのは、山際永三監督と、『俺はあばれはっちゃく』のプロデューサーである鍛冶昇さんとは、どういうきっかけで出会われたのですか?

山際・彼(鍛冶昇氏)自身は忘れちゃってるらしいけどね、僕と彼は慶応(慶應義塾大学仏文科)で一緒だったんですよ。僕より一年上なのね。鍛冶さんとね(在学当時)何回かは顔を合せてるんですよ。僕は(鍛冶さんに対して)「先輩!」って感じでやってたんだけれどもね、向こうは全然忘れちゃってるのね(笑) 

――1971年に円谷プロ・TBSで製作・放映された『帰ってきたウルトラマン』で、鍛冶昇さんと山際監督は、同じシリーズの中でお二人とも監督を担当されておられたことがありましたね。

山際・『(帰ってきた)ウルトラマン』では、すれ違いでしたね。ただまぁ鍛冶さんは、ああいう開けた人だから、円谷一(当時円谷プロ社長 円谷英二監督の長男 元TBS映画部所属)さんとも仲が良かったんですね。で、日活ではずっと市川崑(映画監督)さんに(助監督として)就いたりして。

――鍛冶監督は『二人の銀座(1967年 脚本 才賀明)』などの歌謡ヒット映画などもお撮りになられておられましたね。

山際・そういうの(映画作品)を撮って、それで苦労して、国際放映に来たわけですよね。「国際放映でプロデューサーやるんだ」って決めて来たわけで。最初じゃなかったかもしれないけれど『俺はあばれはっちゃく』をやって(実際には鍛冶昇氏は既に『ふしぎ犬トントン(1978年 フジテレビ)』等で国際放映TVドラマプロデューサーを経験済み)。僕なんかとは気も合ったし。鍛冶さんはある意味若い監督なんかに対しては、強引にこうしろ、ああしろっていう人なんだけど、僕に対してはとても丁寧に対応してくれたんです。テレビ朝日のプロデューサーの落合(兼武 プロデューサー)さんもそういう人だったんだけど、脚本を書く時も必ず、テレ朝の落合さんと鍛冶さんと脚本家と僕、四人で集まって、徹底的に議論するということをやってましてね。

――その脚本ディスカッション方式は、70年代前半の、TBSの子ども向けドラマが橋本洋二プロデューサー体制だった頃の子ども番組の造り方を思い出させてくれますね。

山際・似てますよね。落合さんっていうのは監督の言う事も聞いて、その辺りをちゃんとしてくれたわけです。で、僕がまた『ウルトラマン(シリーズ)』とか、子ども番組をずっと長くやってきたから、(『俺はあばれはっちゃく』の頃は)もう慣れていたんでね、「これはこうした方がいいですよ」とか言うとみんな「あぁそうかそうか」ってそう言ってくれるもんで、比較的、僕の意見が通りやすかったんですね。

――実際のエピソード単位で、ここはこうしようとか、そこはこうしてくれといったプロデューサー的な意見は、落合さんと鍛冶さんでは、どちらが多かったのでしょうか?

山際・どっちかといえば、落合さんが主導的で、鍛冶さんがそれに併せていくという感じでしたしね。そこはまぁ局のプロデューサーを立ててやるわけだけど。でも鍛冶さんの良いところはやっぱり、映画を長くやってきた人だけに、全体をまとめていくとか、子ども達の面倒をよくみるとか、主役をはじめ子ども達の家族とか学校とか、そういう面倒をみてちゃんとやるというところは優れていましたね。非常に監督にとっては、やりやすいプロデューサーだったわけです。

――山際監督がメインで半数近くのエピソードをお撮りになった『俺はあばれはっちゃく』で、主役の桜間長太郎を演じたのが吉田友紀さんであり、その姉・桜間てるほを演じたのが島田歌穂さんであったわけです。島田さんの配役というのは、おそらく落合さんの側で『がんばれ!!ロボコン(1974年 テレビ朝日)』からのスピンオフで起用してきたのだと思われるのですが。

山際・そうですね。島田さんは『(がんばれ!!)ロボコン』からですね。

――そうなると吉田友紀さんの起用というのは、落合さんルートなんでしょうか? 鍛冶さんルートなんでしょうか?

山際・そこははっきり覚えていないんですよね。まぁとにかく落合さんと鍛冶さんで非常に多くの、小学生程度の子どもを探し回ったんでしょうね。で、僕も吉田さんを最初から知っていたわけではなくて……鍛冶さんか落合さんかどっちか……うんどっちかというと、鍛冶さんが見つけてきたのかな? (吉田友紀さんは)確か劇団にいましたかね?

――はい、劇団日本児童に在籍していました。

山際・あぁ日本児童ね。日本児童っていうのは、(劇団)ひまわりなんかから比べれば新興の児童劇団で、僕なんかはもう『チャコちゃん(1966年 TBS)』辺りからずっと日本児童の子ども達を使ってたわけなんだけど。その中で吉田さんというのは、特に僕がみつけたわけじゃないんです。鍛冶さんか誰かがみつけて、そりゃもちろん「こりゃぁいいや」ってことになったんですがね。珍しくこれ(吉田友紀氏)はいいやと。

――現場で実際に役者としてお使いになって、吉田さんの感触としてはいかがだったんでしょうか?

山際・もう文句なしによかったですね! 彼(吉田友紀)ももちろん、最初戸惑うようなところはあったんですけどね。僕も鍛冶さんも「『俺はあばれはっちゃく』は喜劇」ということでは一致していたんです。落合さんが立派なのは、あれは原作は山中恒(『あばれはっちゃく』)でしょう? その山中恒の原作は短い物でちょっとしかなかったんですけれどもね。原作でもあるのかな、その小学校5年生のクラスの中に、ヒロインの「ヒトミちゃん(早瀬優香子)」がいるわけですよね。そのヒトミちゃんは美少女だからみんな好きなんだけれども、はっちゃくがそのヒトミちゃんに近寄ろうとするんだけど、いっつもコレ(肘鉄)をされてるというところが喜劇の中心でね。『チャコちゃん』の時代は、時代そのものもそうだし、「小学生における疑似恋愛」なんてものは、描く必要もなかった時代なのね、「子どもは子ども」っていう感じで。まぁ明るく楽しくやってりゃいいみたいな。ところが『はっちゃく』になって、僕はもうああいう、乱暴で元気の良い子どもの時代じゃないと思ってたんですけどね。やっぱりヒトミちゃんの存在、「ヒロインがいる」っていうのが、受けた原因じゃないかと思ったんですよね。

――今お話に出た作家の山中恒さんと山際永三監督とは、かつて70年代に子ども向け文化の世界で名を馳せた「現代っ子研究会(TBSプロデューサー・橋本洋二 脚本家・佐々木守 教育評論家・阿部進 教育者・無着成恭)」で、お二人とも活躍なされておられましたよね。

山際・いや、僕はその会に入っていたわけではないです。山中さんって人も地味な人でね。なんたって『皇国少年』かなんか分厚いああいう本を一生懸命書くのが、主でね、テレビ映画なんかそりゃ、書いてる時間なんかは少ないわけですよ。で、僕は山中さんの家には一回か二回は行ったことはあるけどもね、あまり佐々木守(脚本家 山際監督とは『コメットさん(1967 TBS年)』『それ行け!カッチン(1975年 TBS)』他)とか市川森一(脚本家 山際監督とは『コメットさん(1967年)』『恐怖劇場アンバランス(製作 1969年 フジテレビ)』『ウルトラマンA(1972年 TBS)』他)みたいに、親しく語り合って作ったって覚えはないんですよ。もう、原作者としてアイディアを出して、時々脚本も書くというそういう人でした。

――しかし、山中恒さん原作で山際永三監督作品ドラマというと、他にも『ちびっ子かあちゃん(1983年 日本テレビ)』とかがありますので、もっと懇意にされているのかと思っておりました。

山際・そう、沢山やったんだけどね。でも、特に会って話し合うということはなかったんですよ。ただ、僕もやっぱりあの(70年代)時代の子どもに「現代っ子」って言葉を付けて盛んに持ち上げていた阿部進とか無着成恭が、なんでも子どもを持ち上げるのかという、そういう(風潮の)中に於いて、山中恒はちゃんと、筋が通っている人だなと思ってはいたんですよ。特に親しくしていたわけではないんですが(笑)

――「現代っ子研究会」も、集った人単位で様々な価値観があったわけですね。

山際・まぁ特に集まったわけではないんですね。もちろんそれを決して否定はしないんですけど。ただ阿部進なんかはね、1970年ぐらいにどっかの新聞にコラムを書いてね。「全共闘っていうのは『現代っ子』が社会と闘っているんだ」っていうようなことを書いたんですよ。なにを書いているんだと(笑) そんな問題じゃないよって。阿部進は当時マスコミに乗るのが凄い上手い人だったんですけど、その阿部進が「現代っ子」を定義して曰く「自動車の種類や性能をよく覚えていて、路上でもすぐ見分けられて、交通事故にも合わない子ども」と、こうくるわけですね。だから「現代っ子」の定義としては非常に表現が巧いんですね。

――70年代の阿部進氏というと、カバゴンという愛称を自分から名乗って、漫画雑誌だった『週刊少年ジャンプ集英社)』の巻末に文章コラムページを連載で持っていたり、子ども向け玩具の『超合金(旧ポピー販売)』の箱の裏に、子ども向けではなくあえて「子どもに買い与えてあげる母親向け」で「カバゴンからママへ」みたいな形で教育論を書き添えるなど、メディア戦略がとても巧い人であるという印象はありましたね。そういった当時の風潮と、今のお話を併せて考えると、活動としては山中さんの方は地に足の着いた仕事をされていたという印象になります。

山際・そうですよ、地味です。なんたって『皇国少年』とか書いてたぐらいですから(笑)