柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

このブログ(ダイアリー)について

このブログは、私の趣味の事を好きに書いてきています。
今では、『あばれはっちゃく』に関連する記事が多くなりましたが、書きながら常に私の中では、疑問符が出ています。
果たして、このブログは、これを読んでいる人の楽しみになっているのか、為になっているのか?という事です。
こんな考えは、好きに書きまくって、誰にも読んでもらえなかった時代には考えもつかなかった事でした。
しかし、曲がりなりにも、コメントを頂けて、反応があるという事実を前にすると、考えない訳にはいきません。
次第に、やらしい考えも出てきます。
私の『あばれはっちゃく』に関する考察は、基本的にDVDを何度も見て、原作本を読み、可能な限り当事者のインタビュー記事のある本を買い、または、当時の自分の記憶を掘り起こし、ネット検索で情報をかき集めたものを元にして、推測しているに過ぎません。
私は、芸能界、テレビ界、出版界に関連した仕事もしたこともなく、また、『あばれはっちゃく』に関わった人達の知り合いでもありません。

ですから、私の導き出した答えが本当に正解かどうか分からないのです。
ある一人の視聴者の一つの見解だと見て頂けたらと考えています。
数少ない資料の中、当事者の言葉等、それらが私の中のこの作品に魅了された謎を解く手がかりなのです。
それを推理し、考察するのは、とても楽しい反面、正解のない途方もない道を歩いていくとき、誰に届くでもない空間にそうした考察した文章の手紙を放り投げる時に限りない空しさを感じるのです。
作品の受け止め方は、視聴者の数だけあって、いいものだと私は思います。
思いますが、時に作り手から、「そうだよ」とか「違うよ」という言葉を、問題を解いた後に丸か罰をもらいたいと思うのです。
また、業界に関係のない、一個人が調べているので、間違いや勘違いがあると思っています。
書く時には出来る限り調べて、また、後に分かれば訂正したりしています。
しかし、たまに私のブログについて、ひっそりと影で間違いを指摘しあっているツイートを目にすると、どうして、コメント欄に書いてくださらないのだろうと怒りと寂しさを感じるのです。
一方で、コメント欄に書き込むには勇気がいる事も、私は経験で知っていますので(皆さんが、私と同じ感性を持っているとは思いませんが)書き込まない理由も分かるだけに辛いのです。

だったら、何も何の報酬もなく、辛いのであれば、このブログを止めたらいいと思う人もいるでしょう。
反応が少しあったからと、いい気になっているようだが、それはお門違いで自惚れるのもいい加減にしろ、と思う人もいるでしょう。
また、ここまで読んで、なんだ愚痴かと呆れて、次の文章を読まない人もいるでしょう。
私の『あばれはっちゃく』に関する考察も、感想も好きで始めた、私の余暇の暇つぶしだった筈です。
それが、まるで、誰に頼まれるでもなくライフワークになっている。どこか、的外れで欠けている考察を書いているのではないか?という疑念が渦巻く中、果たして、このブログは『あばれはっちゃく』の事や関連した人達の事を追及して、書いていっていいのだろうか?と一個人の小さな存在な私でも考えてしまうのです。
私が書き続けることで、『あばれはっちゃく』という作品に泥を塗ってないか、私がファンでいいのだろうか、と考えてしまいます。

このブログは必要ですか?

今回の記事は、慰めてくれる人、突き放す人、呆れる人が出てくると思います。
私は、返事をくれる人達よりも、サイレントな読者の方達、また、ヤフー知恵袋で、ここを知り、ここで『はっちゃく』に関する知識を得た人達に向けて書きました。
調べたことや考察した事に対して感心されるのは嬉しい事ですが、決して、ここは公式でもなんでもなく、一ファンの推察の域を出ない一般個人のブログだと分かった上で見て欲しいのです。
「へぇ、そうなんだ」で感心して終わり、そこまで、ここを信用して欲しくはないのです。
信用して頂くのは嬉しい事ですが、疑問を持ち、もし違っていたら、明確な根拠と証拠を元に、私に本当に近い事を、事実を教えて欲しい。そうすれば、きっと、もっと、思い出の中の『あばれはっちゃく』の世界は色鮮やかに蘇り、当時、知らなかった事実を知る事が出来て、また、再発見出来て、作品世界が広がっていくのではないか、と私は思います。
今、全ての代の『あばれはっちゃく』の映像を見返す事が出来る。
「今」新しく『あばれはっちゃく』を知る人、思い出す人、もっと好きになる人が増えていくと思います。
私よりも、もっと、もっと深く、『あばれはっちゃく』を正しく深く追求してくれる人が出てきて、行く道を照らして欲しいのです。