柿の葉日記

主にドラマ『あばれはっちゃく』について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

ぼくがぼくであること

ちょっと前になりますが、本屋で偶然「あばれはっちゃく」の山中恒さんの作品「ぼくがぼくであること」を偶然見つけ購入しました。「ぼくがぼくであること」はずっと探していてもなかなか見つける事が出来なかったのですが、あの時は夏休みの子どもの宿題を特集する棚の所に表紙を前にして、まるで私を待っているかのように、でーんと一冊だけ置いてあったのです。まるで、私に買われるのを待っていたかのように。

読み始めると凄く読みやすくて、どんどんと読んでいけました。最初に感じたのは原作の「あばれはっちゃく」よりもこちらの方がドラマの「俺はあばれはっちゃく」に雰囲気が近いなと言う事でした。どんどんと読み進めていくと、違いが少しずつ出てきて「ぼくがぼくであること」の独自の世界観が私の中に出来てくるのですが、根本的なテーマというか底辺にあるものはそれ程違いはないのかなと感じるようになりました。私は「教室205号」を見る前に「ぼくがぼくであること」を読み終えていたのですが、「教室205号」を見た時に「ぼくがぼくであること」とテーマが同じだと感じました。かつて、ひろくんさんが「ぼくがぼくであること」をお勧めした理由がその時に良く分かりました。

「ぼくがぼくであること」の主人公の秀一は兄弟の中で一人だけ学校の成績の悪い事で母親から目の敵にされ、妹のマユミに馬鹿にされて不満を持っていますが、それでもただなんとなく生きているように感じました。それが、弾み?で結果的に家出をしてしまった秀一が夏代と出会い家出をした夏休みに体験した出来事、その後の休み明けの出来事を通して、それまで、ぼんやりとしていた秀一の人格と考えが、くっきりと輪郭を持ちはっきりとしていったなと思うのです。

親が言うからとか周りがそうだから、ではなく自分の意志、自己の確立。大人も人間で、子どもは大人に振り回される。子どもは好きな事が出来るようでいて、実は親の庇護の中にいるからこそ、その自由が保障されている。自由なようでいて制限がある。その制限に不満を感じているのならば早く大人になって自分の自由を勝ち取る。そこにはやはり責任が伴ってくるというのを知らせれたと思います。早く大人になるというのは体の成長や年齢ではなく、自己の考えにおいて自分の行動の責任をとる。それが大人というものだと私は読んでいて感じました。実際に秀一はそのように話の中で成長していくし、夏代もそうした女の子だったと思いました。秀一が同い年の夏代に対して大人っぽさを感じたのはそうした所があったからかもしれません。

原作の「あばれはっちゃく」にも「長太郎君、僕たちは早く大人になることだよ」という台詞があります。子どもは自由で、でもその自由には制限がある。それは親の庇護にいるから。制限があると不満を感じるけれど、しかしその不満というのは贅沢なもので、不満を感じるのならば親の庇護を必要としない大人になる事が大切なんだと、そう思うのです。秀一だけでなく、ただ母親の言う通りに見えていた兄の良一も次兄の優一も母親に反発していき自分を出していきます。母親は姉のトシミが言うように可哀想な人なのかもしれません。世間体という価値観に縛れて自分の好きな事を諦めて、子ども達だけに望みをかけている。しかし、子どもは物ではなく心と考えがあり、自分の好きなようにコントールする事は出来ない。出来ていたとしても、最後には反発をされてしまう。それは、親子関係に限らず、人間関係全てにいえることなのかもしれないと、そう思いました。読みながら、私自身の人間関係を振り返ってしまいました。

私は過去に拘る人間で、恥ずかしながらとても人様に言えるような経歴ではなく、子どもの頃から失敗ばかりで駄目な人間なのです。ちょうど、夏代の祖父が過去の自分のした過ちをずっと悔いていて、それを絶対に夏代にそれを知られたくないというのと同じように、スネに傷を持ち過ぎている人間なのです。でも、祖父の全てを知った夏代の言った言葉は私の心の(そんな他人から見たらたいした事のないとるに足らないスネの傷なんかどうでもいい。少なくとも夏代の祖父よりは)拘りを洗い流してくれました。夏代の祖父は夏代の言葉に拍子抜けをしましたが、私も同じでした。秀一がげらげらと笑いだしますが、夏代の祖父の蟠りも拘りも、私の拘りも実は大したことではないのかもしれないなと思いました。

責任を持たないというのは楽ですが不自由です。責任を持つという事はとても怖く勇気がいる事ですが、自由が持てます。大人になるというのは、その自由を自分のものにしていくものだと私はこの夏、「ぼくがぼくであること」と「教室205号」を見てそう思いました。そして、「あばれはっちゃく」も含めて、山中恒先生と大石真先生はそうしたメッセージを作品の中で子ども達(かつて子どもの年齢だった私達)に教えて伝えてくれていたのかなと思うのです。