柿の葉日記

主にドラマ『あばれはっちゃく』について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

優等生

正彦にしても新ちゃんにしてもどうして二人とも親の再婚に寛大なんだろう?正彦のママの事を忘れなくてはいけないというのが我慢できなかったけど、自分の気持ちよりも父親の事を考えていたし、新ちゃんにしても自分の気持ちよりも一貫の事を考えていた。

「俺はあばれはっちゃく」第35話で正彦は家事で忙しい父親の為に父親の見合い話に賛成するが、自分の母親の事を忘れなくてはいけないという寂しさから、最終的にはその再婚話に抗議する為に家出をする。正彦は母親が亡くなってから男手一つで育ててくれた父親の事が大好きだし、その父親の為なら自分が寂しい思いをするのを我慢する方を選ぶ。それでも、大好きな記憶の中の母親の事を忘れたり、思いだして話したりしなくなっていって忘れていくのだけは嫌でそれに抗議する。

人の記憶は残酷で時の流れと共に記憶は薄れていって、あんなに覚えていたのにあんなに毎日あっていたのに、段々忘れていく。死んだ人を忘れてしまうのはその人の存在や生きていた事が消えてしまう事で、正彦はそれが嫌だったのだと思う。「ママの事を忘れるもんか」と正彦が長太郎に言ったのは、正彦の中で母親の存在を消したくなかったから。父親の作る味噌汁の味が母親の味に似てきたのを喜んだのは、その味噌汁を飲む度に母親を思い出す事が出来たからではないか?と思う。父親の見合いの相手の幸子さんが味噌汁が嫌いだと言って、結婚したら作らないと言ったのを聞いた正彦は二度と母親を思い出す味噌汁が飲めなくなると思って腹が立ったのかもしれない。家出の騒動から父親が見合い話を断ってきた時に正彦が少し申し訳なさそうな顔をするが、それを見ても正彦が自分の思いを押し切ってしまった事を父親に対して申し訳なく思っているのが分かる。正彦は自分の中の母親の思い出、母親の存在自体を忘れなければいけない事が嫌だったが、父親が望むなら再婚を応援したかったという思いも本当だったと思う。だから、父親に申し訳なかったんだろうなと思った。

「気まぐれ本格派」の新ちゃんも袖子さんの再婚話に反対はしない。「お母さんがいいんなら、僕もいいんだ。平気さ。でも、中叔父ちゃんと一緒にいられないのが寂しいなぁ…って…」と言う。正彦も新ちゃんも自分の気持ちはひとまず置いて父親や母親がいいのなら、自分もそれに従うと言っている。最終的にはその寂しさというか、再婚そのものよりも、その再婚によって大好きな母親の事を忘れなくてはいけなかったり、大好きな一貫と突然別れなくてはいけなくなってしまう事になってしまった時にそれに耐えられなくなって、それまで父親の為、母親の為、叔父の為に我慢していた気持ちが爆発している。

我慢が出来ないのなら最初からその気持ちを言えばいいのに…と思ったりもするが、それが出来なかったのが、正彦と新ちゃんだったのかもしれない。(新ちゃんの場合は微妙に違うような気もするが、袖子さんの再婚話には最後まで反対はしなかったし…一貫が海に帰っていくのも、あれは一貫が勝手に勘違いをして出ていったから、袖子さんの再婚とはまた別の話だし…)決して長太郎が親の事を考えていないというのではないが、長太郎が自分の気持ちをはっきりと示したうえで親の事を考えているのに対して、正彦と新ちゃんの場合は自分の本当の気持ちは抑え込んで親の事を考えているというのが違うように思う。それでも、新ちゃんも長太郎も正彦も3人とも表現方法は違っていても、それぞれに相手を思いやる優しさは持っていたと思う。正彦と新ちゃんは性格は違うが二人ともに文武両道の優等生だった。「気まぐれ本格派」「俺はあばれはっちゃく」が放送されていた1970年代後半、あの時代の大人が考える優等生の姿はそういう人物像だったのかもしれない。

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