柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

おれ、ヒトミちゃんのためだけに学校へ来ていた

 長太郎は遅刻はしたが学校を休む事はなかった。『気まぐれ本格派』の新ちゃんは一度だけズル休みをして散々皆に心配させて袖子さんにこっぴどく怒られた。『鉄人タイガーセブン』の次郎も学校を一度だけ勝手に休んでお父さんのお墓参りに行っていた。どちらと言うと後者の2人のほうが学校をさぼるイメージがないのだが、意外な事に長太郎の方がさぼってない。といっても長太郎は悪い子でも不良でもないので病気でもない場合は学校へ行くのが当たり前なので学校へいくのだ。

 学校へ行くのが当たり前の事で何の疑問も持たずに学校へ行く。これって幸せな事だなって思う。私はいじめによって不登校になってしまってこの当たり前の事が出来なくなってしまった。自分の中で当たり前だと思っていた事が出来なくなった時はとてもショックで情けなかった。いじめなんてこの時が初めてではなかったし、小学生の時は乗り越えられたのに高校生の時に乗り越える事の出来なかった自分が信じられなかった。その頃に今に続く病気も発病して、まさに人生のどん底だった。でも、まあ…今でも生きてるし、仕事もあるし、こうして呑気にブログなんか書いてるから、まだましなのかなと思ったり、今でも時々嫌な事はあるけれど、それなりに幸せかな。

 と、話が逸れたけれど長太郎は勉強は大嫌いだったけど学校は好きだったんじゃないかな。佐々木先生の事も大好きだっただろうし、同級生の皆も馬鹿にしたりされたりしていたけれど、それでも仲は良かったと思う。そして何よりヒトミちゃんがいた事が長太郎にとって一番の学校へ来る理由だった思う。「おれ、ヒトミちゃんのためだけに学校へ来ていたみてえなもんだったなあ」というのは原作の長太郎の台詞だけど、(前にも書いたと思うけど)ドラマの長太郎もきっと同じだったと私は思う。人や物を好きになる時に出てくるパワーというのは凄いものがあって、その人を突き動かす原動力になるものだと思う。

 「好き」という力はあながち馬鹿に出来るものではない。好きなものがあると人は強くなれる。例え虐げられても心の中に好きなものがあると、それを支えにして生きていくことが出来るし、倒れそうになった時にそれのお陰で倒れる事を免れる。私は不登校になってしまったけれど自殺しないで今もこうして生きているのはあの時好きだったものが私を支えてくれたから。(私がこうして今生きている事がいい事か悪い事か分からないけれど)でも、好きなものから拒絶されると激しくへこむ。あの、長太郎でさえ第11話でヒトミちゃんに無視された時は涙ぐんだ。それでも、長太郎の強い所はヒトミちゃんに無視されてもへこたれず同じしつけ教室へ通ってしまうとこ。

 現実と違ってドラマだから最終的に長太郎にとっていいような結果になるのだけど、私は最近、長太郎のように自分に自信を持って、好きな人の為に努力して生きていると結果的に自分にとっていい結果が転がり込むものだと思うようになった。これは、私が実際に体験してそう感じた事。『俺はあばれはっちゃく』を久しぶりに見て、彼らに勇気を貰い「頑張ってやっていこう!」と思っていた時は仕事でもいい結果が多かった。少し疲れて愚痴が多くなり、その気持ちが薄れていくと、良くない結果が多くなっていった。これは自己暗示もあるし気のせいもあると思うけど実際にそうだった。

 世の中には嫌いな事もあるし嫌な事もあるけれど、好きなものもあるしいい事もあるこれからの人生がどれだけ私に残されているか分からないけれど、いい事が多くなるようにもう少しだけ頑張ってみようと思う。でも、時々は疲れて愚痴を言ったりもするかな……?