柿の葉日記

主にドラマ『あばれはっちゃく』について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

はやぶさの件などを見て思うのだが、時に人は心のない物に自分の心を投影させて擬人化させる。九十九神とかでもそうだが、そうして心のない物に心を見てそれに心を揺さぶられながら、人は時に同じ人に対して心がある事を忘れてしまう事があるように思う。

物に対して優しさを持つ事が出来るのに、同じ人に対して優しさを持つ事が出来ずに憎んでしまう事があるのは何故だろう?相手が自分の思う通りに動かないからだろうか?物に心を投影させる時は自分の考えに基づいた自分に都合のいい考えで、相手が人だとそうではないからだろうか?

人の考えや思い方は多種多様で同じものを見ても、同じものが好きでも全く同じなんて事はない。それでも他の意見を心では分からなくても頭で理解する事もあれば、どんなに言葉で説明しても全く分からない事もある。同じ国の人間でもそうなのだから、異国で他の文化の人との理解は大変なものだと思う。

だからと言って全く同じ感情や考え方では、なんの為にこれだけバラバラの個人がいるのか分からなくなる。バラバラな一人、一人違う考えや心があるからこそ、一人一人がかけがえのない他に代わりのない人間になるのだろうか?しかし、その一方でその違いが争いを生むのではないか?

手塚治虫先生の「火の鳥」で最終的に全てがコスモゾーンの中で一つになるというのが「未来編」で描かれていたけれど、それが平和の一つの理想かもしれないが、だとしたら何故、個人と言う存在があるのだろう?

今、23日に見逃した「奇兵隊」を見ています。23歳、藤太役の吉田友紀さんを見る事が出来てとても嬉しい。かっこいいですね!(11月29日18時40分追加)