柿の葉日記

主にテレビドラマ「あばれはっちゃく」について語る個人ブログです。国際放映、テレビ朝日とは一切関係がありません。

くじけない心

 時々思うのだが例えば悪気がなく、自由でのびのびとした発言をすると否定されることがある。その人の人柄を理解して周囲もその発言を許してくれているうちは、その人もありのままの自分を怖がらずに表に出すことが出来ると思うのだが、周囲がその人の言動に対して、「何様?」と思って集団で一人を拒絶した場合、それまでそれを許されていた人間は戸惑って、自分を見失い、どうやったら相手の機嫌が直るかと考えて、自分を小さくしてしまうのではないか?と思ってしまう。私自身が転校した先でそうした経験をしたので、そう思ってしまうのかもしれない。

 そうして、拒絶されて本来の自分を出すことが出来ず、内に篭る人もいるのではないか?だが、それとは正反対の人もいる。拒絶されても自分自身を見失わず、自分を表現することを怖がらない人。ふと、2代目以降の転校生の長太郎たちを思い出す。彼らもその暴れ振りから最初は転校先のクラスメイト達から拒絶された。しかし、彼らは自分自身を曲げることなく、自分らしさを失わなかった。

 時に「どうしてなんだろ?」と悩んだりしたけれど。ありのままの自分を貫くというのは考えるよりもかなり大変な事だ。しかし、ありのままの自分を出すことが必ずしもいいとは限らない。初代の長太郎は転校生ではなかったが、厄介者扱いされても自分らしさは失わなかった。人間には誰にも短所や欠点があり、思ったことをそのまま言うのは時に人の気持ちを無視して傷つけることもある。拒絶されるにはされるなりの理由がある。何故、拒絶されたのか?それを考え己の言動を振り返り、自分の欠点を見つめ直して改善する事で相手も受け入れてくれるし、自身の成長にもなる。

中にはそうしても、頑なに拒絶を続ける人もいるが、認めてくれる人もいる。そうして、認めてくれる人を作ることで自信を回復し、新しい自分を手に入れて大きくなる人。認めてくれない人に拘りすぎて自分を見失う人がいる。一度、拒絶された人間の信頼を得ることは大変な事だ。信頼というのはやはり積み重ねがものをいう。それを得るまでの間にくじけることなく、自分らしさを失わず、内に篭ることもなく、己を成長させていくというのは理想的ではあるが、誰にでも出来ることではない。周囲に拒絶されても、自分自身を貫く、欠点を見つめ改善していくそれを出来る人というのは本当に心が強くなければ出来ない。

 強い心というのはなにも傷つかない心を持つということではないと私は思う。傷つく心があるのは、良心があり、自分の悪いことに気がつく事が出来る心があるということ。強いというのは、その心の傷を癒し、直す力を持っている事なのだと思う。そうして、自分の傷ついた心を修復し育てることの出来た人は強い人間に成長していくのだと思う。歴代の長太郎たちもやはり、そうして強い人間になっていったのではないのではないだろうか?